アラン「幸福論」入門:思想と名言

アラン(エミール・オーギュスト・シャルティエ、1868-1951)はフランスの哲学者です。代表作「幸福論」は現在も広く読まれています。この記事はアラン「幸福論」(宗左近、中央公論新社、2016、以下「幸福論」と記す)を参考にしています。

構成と背景

アラン「幸福論」の日本語訳は93の短いエッセイからなります。それぞれのエッセイは独立していますが、一貫して精神、肉体、そして幸福を主なテーマとしています。

アランは19世紀から20世紀のフランスに生きました。当時のフランスは革命から続く政治的な激動を脱して、総じて安定に向かっていた時代です。しかし貧富の差が拡大し、資本家と労働者の対立が激しくなり、社会情勢は今の世界(と日本)と大きな差はありませんでした。

経済的な発展の裏に不幸が蔓延し、「不幸とは?幸福とは?」という抽象的な問いかけが多くなることは、現代社会で自己啓発や精神分析の本が多く出版されることからも明らかでしょう。

以下、各エッセイの概要をサブタイトルと番号つきで紹介します。番号は中央公論新社の訳書に準じます。

4. 神経衰弱

仕事やトランプ遊びをやめると、無数の些細な思いが無数の色合いで頭の中を回転して、うれしいと思えば悲しくなり、悲しいと思えばうれしくなり…
「幸福論」p13

私たちは遊びから解放されたとたんに、記憶の波に飲まれます。好きな作業に熱中しているとき、例えば泳いでいるときや好きな人と楽しく話をしているときを想像してください。海の波にただよって元気よく泳いでいるときに、一年前の失敗をうじうじ悔やんでいる人がどれだけいるでしょうか?

しかし海から抜けてシャワールームに入ったとき、ふと過去の嫌なことがよみがえって「どうしてあんなことを言ったのだろう」とくよくよし始めるかもしれない。

人は熱から冷めると過去をふりかえります。それはある種の妄想を作り、つまらない失敗を大きな失敗にしたてます。そこでは素晴らしい成功もつまらない結果になります。えてして不幸はこうした錯覚から生じるのです。

海辺

6. 情念

情念というものは、全く人間の思考によって発動するものであるにもかかわらず、同時に人間の肉体のなかに生じる運動に依存するものであることをかれ(デカルト)は示した。
「幸福論」p21

ストア学派とデカルトの主張をふまえて、肉体が情念を生むと言っています。アランは一貫して不幸や精神的苦痛は肉体の物質的な運動の結果であると説きます。

9. 精神の病い

死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を心に感ずるのは幸福な人たちのみなのである。したがって、人はたとえ偽善者でなくても、自分の行っている悪よりも他人の行っている悪の方に敏感であるということが、まま起こるのである。そこから人生についての誤った判断が生まれる。
「幸福論」p31

「幸福論」はよく死刑の例をあげます。ここでは引用できない表現もありますが、「精神の病い」も前半で死刑を例にしています。

本当の不幸は、時間が短い。しかし私たちは、それを何年も続く慢性的な苦痛と考える。

12. 微笑

不機嫌というものは、結果でもあるが、それに劣らず原因でもある…われわれの病気の大部分は、礼儀を忘れた結果である…礼儀を忘れるということを、わたしは人体の自分自身に対する暴力行為である、と考える…
「幸福論」p39

不機嫌は結果であり原因である。今これを落ち着いた気持ちで読んでいる方は、アランの言っている意味がすぐにわかると思います。怒っているとき、怒りは別の怒りを呼んできます。子どもがダダとこねたり、すねたりすることは、だいたいが不機嫌が不機嫌を呼んでいる結果です。

イライラする
→怒鳴る
→怒鳴っている自分にイライラする
→ますます怒鳴る

不幸とは、自分の尊厳を破壊することで成長します。自分は火であると同時に、燃料でもあるわけです。その負のエネルギーを消すためにはどうすればいいでしょうか?

微笑したり、首をすくめたりすることが、心配事をおいはらう良策なのである。まったく容易にできるこの運動が、ただちに内蔵の血液循環に変化を与える…
「幸福論」p41

サブタイトルの通り、少し笑うくらいでいいのです。怒りのピークは数秒であるという説があります。もしその通りであれば、怒りがピークに達する数秒の過程で、ほんの少しでも笑うだけで、怒りの絶頂を抑えることができるはずです。

ダンスは喜びを表す

16. 態度

どんな平凡な人間でも、自分の不幸をまねるとなると大芸術家になる。
「幸福論」p52

悲しみが悲しみを生むように、私たちは悲しいという気持ちを行動に表したとき、それを大胆に大げさに表現する。幸福や快活さを表現するほうがずっと難しい。

ほぼすべての人は、自分の悲しみをこの世で最も残酷な仕打ちであるように訴える。そのしつこさは、バートランド・ラッセルが「幸福論」で述べている現代的な被害妄想です。

不思議なことに、人という生き物は数千年前から文明を作っているにもかかわらず、怒りを表現する方法は開発しても、それを支配する方法は長く開発してきませんでした。

20. 宿命

われわれはどんなことも、腕を伸ばすことさえも、自分でははじめられない。だれも神経や筋肉に命令を与えはじめるわけではない。…だれも選択したものはない。われわれははじめみんな子どもだったのだから。だれも選択をしなかった。だれもがまず行動したのだ。
「幸福論」p70

私たちは決定しようとして決定したわけではありません。こうすればこうなるという判断は確かにありますが、人生を決定する重要な判断さえも、こうしようという明確な意思にもとづいているものは多くありません。

いつから私たちは人生を選択できると考えるようになったのでしょうか? 本当に選択しているのでしょうか?

この世を生きる秘訣は、わたしの見るところ、なによりもまず、自分のした決心や自分のやっている職業について決して自分自身と喧嘩しないことだ。そうではなくて、自分の決心や職業をちゃんとやってのけることだ。われわれは、自分がしたわけでもないのにすでになされているこの選択のうちに、宿命を見たがるものである。
「幸福論」p71

73. 上機嫌

たまたま道徳論を書かなければならないとすれば、わたしは上機嫌ということを義務の第一位におくだろう。
「幸福論」p224

アラン「幸福論」がポジティブと言われるのも、上のような文が随所に散りばめられているからです。

陰気な顔で悲しみを助長するような言葉は、放蕩息子に警告するような場合を除いて、道徳教育にふさわしくないかもしれません。「上機嫌」のエッセイでは、司祭たちのありがた迷惑の説教や悲しみに暮れた顔を批難しつつ、私たちは勇気をもって行動しなければいけないと説きます。

これまでのエッセイで何度も主張しているように、悲しみは悲しみを生み、不幸は不幸を生み、私たちはそれを風船のように膨らませて悲劇のヒロインを演じることが大好きです。それが不幸な人の陥る罠でもあります。

「上機嫌」は最後にこのように述べて終わっています。

他人に対しても、自分自身に対しても親切であること。ひとの生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること、これこそ真の思いやりである。親切とは喜びである。愛とは喜びなのである。
「幸福論」p226

幸福になりたい人は、自分自身を幸福にしようという意識を持たなければいけないでしょう。そのためには自他ともに親切にして、不機嫌な態度をとらないことが重要です。

体を動かすことは幸せである

75. 精神の衛生

ある特定の思考に固まって執拗に主張することはいいことでしょうか? これは自分の信念を主張する哲学者にとって諸刃の剣になるテーマですが、アランは勇気を出してこれを否定しています。

わたしは、偏執的であるより、無頓着でありたい
「幸福論」p230

年を重ねていくと、人生を捧げた特定のテーマから思考するようになるため、第三者から見て狂信的ともいえる思想を持ちやすくなります。

これは私の経験になりますが、かつて高校生を教えていたとき、将来の選択や人生の迷いといった相談を受けたときに「…についてどう思いますか?」とよくきかれました。その時に限って、私は私の一万倍優れた過去の偉人をひっぱってきて、ふわっとしたアドバイスをしました。

教育にたずさわる人がおそらく気をつけないといけないことは、アランのいう偏執的な側面を自分から除去することです。

(子供や大人にものを教える人たち)の言うところをきくと、要は、よく固まって、動かすにもどっしりと重いような観念をもつことにあるようだ。…こうしたことは、われわれが不機嫌になって、われわれの考えが苦味をおびるようになるやいなや、年とともに危険になる。
「幸福論」p230

82. 礼儀

礼儀は行動と発言の二つのタイプがあります。食べ方、歩き方、ボディ・ランゲージなどの行動にともなう礼儀と、言葉づかいや言い方などの発言の礼儀です。

アランはそれまでのエッセイで肉体的なのびやかさの重要性を説いていますが、礼儀もまたのびのびしているべきだといいます。

(礼儀に必要なのは)動きが正確でのびのびしており、固くなったりふるえたりしないことだ。ほんのちょっとした身ぶるいでも相手にはすぐわかるものだから。第一、相手を落ち着かせない礼儀などあるはずもない。
「幸福論」p250

この段落は私の意見になりますが、ほとんどの人は言葉そのものよりも発音のほうに礼儀を感じやすいと私は感じています。「何を言うか」よりも「どのように言うか」「どのように発音するか」。「そうですね」といった単純な言葉をとっても、わずかな発音の違いで人は礼儀の有無を判断するでしょう。

アランはさらに、臆病な小心者はささいなことに無駄な力を入れるといいます。明快な判断を下すことができないと、一つ一つの行動や発言が不自然になって、変な力が入ってしまう。逆に考えると、変に力がこもっている人は優柔不断であるともいえます。

「訳者あとがき」について

私はこうした哲学的な本を読むとき、最初に真ん中あたり、次に最後を読みます。本書の最後「訳者あとがき」はアランという人を歴史的に解釈するうえで重要になるでしょう。

「幸福論」はよくデカルトを引用しますが、アランの思想はデカルトの合理的な哲学を受け継いでいるようです。「敵をつくるのは、自分がその人を敵にしているからだ」という主張にあるように、アランはある意味で、世界を自分の理性を中心に描いています。

アランは、「高邁」ということを最上の美徳とするデカルトの、三百年をへだてての直系の弟子だからです。…打ちかち乗りこえるとは、まず第一におのれに、おのれに打つかち乗りこえることを通して次におのれの周囲の人々に、更には環境に、やがては運命に、打ちかち乗りこえるということです。
「幸福論」p288

名言

人が幸福を探しはじめるや否や、その人は幸福を見つけられない運命におちいる
「幸福論」p265

意地が悪いといわれる人たちはだれでも、たいくつすることによって不満なのだ
「幸福論」p269

悲観主義は気分に由来し、楽観主義は意志に由来する
「幸福論」p283

楽観主義は誓約を必要とする
「幸福論」p284

目次(アラン「幸福論」)

概要
37. 夫婦(夫婦関係を悪化させない方法)
38. 倦怠(怠け者は行動しない)
67. 汝自身を知れ(最大の敵は自分である)
78. 優柔不断

参考文献

アラン「幸福論」(宗左近、中央公論新社、2016)

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