解説と問題からわかる飛鳥時代 聖徳太子と中大兄皇子と天武天皇を中心に理解しよう

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[su_tab title="解説"]

飛鳥時代は聖徳太子、中大兄皇子、天武天皇、藤原不比等の三人が活躍した時代です。飛鳥時代の次は奈良時代になります。

飛鳥時代は三人がいた三つの時代に分けられます。

①聖徳太子がいた時代 ②中大兄皇子がいた時代 ③天武天皇がいた時代

最初の聖徳太子がいた時代は比較的平和でした。続く中大兄皇子の時代は、聖徳太子の代わりに蘇我入鹿が政治の実権を握っていた不安定な時代。中大兄皇子が蘇我入鹿を滅ぼした後も、白村江の戦いで唐と新羅に敗北するなど不安定な時は続きます。そして最後の天武天皇の時代は、飛鳥時代から奈良時代に向けて世の中の仕組みが大きく変わる時代でした。

以上のように時代を(人物に合わせて)三つに分けて考えると、飛鳥時代をよく理解できるようになります。

三人がやったこと

やったこと
聖徳太子 仏教を取り入れた
憲法十七条
冠位十二階
遣隋使
中大兄皇子 蘇我氏を滅ぼす
大化の改新
庚午年籍(こうごねんじゃく)
天武天皇 壬申の乱
古事記・日本書紀

以下詳しくみてみます。

聖徳太子

聖徳太子は仏教、憲法十七条、冠位十二階、遣隋使の四つがポイントです。

そもそも日本には神道というものがありました。日本人は神社にお参りに行ったり、石や木に縄(注連縄という)を張ったりしますが、これを神道(詳しくは古代日本のアニミズムと神道)といいます。神道ははるか昔からあり、朝廷も神道を信じていました。

しかし聖徳太子は神道だけでなく、仏教も大切であると説きました。今仏教が日本にあるのは聖徳太子のおかげなのです。聖徳太子は仏教の大切さをみんなにわかってもらうために法隆寺を建立しました。

ここで問題が起きます。聖徳太子は仏教の大切さを説きますが、中にはそれをよく思わない人もいました。物部守屋です。仏教を受け入れるか、受け入れないかで朝廷が真っ二つになります。

意見 人物
仏教賛成派 聖徳太子、蘇我馬子
仏教否定派 物部守屋

仏教をめぐって蘇我馬子と物部守屋が対立し、結局、物部氏は蘇我氏に滅ぼされてしまいます。その後、聖徳太子と蘇我馬子は仏教の普及に専念します。

憲法十七条と冠位十二階はどちらも「法律のようなもの」とざっくり考えましょう。実際どのようなものか、というよりも名前を覚えることが大切です。日本で初めてできた「法律」と言ってもいいかもしれません。

遣隋使は中国に送る人(使者)のことです。当時中国は随という国だったため、遣隋使という名前がついています。聖徳太子は小野妹子を遣隋使として随に送り、随の王(煬帝(ようだい))に国書を渡しました。その国書の一節にこうあります。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

※この国書については諸説あり、この言葉が聖徳太子によって書かれたかどうかはっきりしない面もあります。

諸説ありますが、ひとまずこのように考えていいでしょう。

日出づる処の天子 … 推古天皇(聖徳太子が補佐していた天皇) 日没する処の天子 … 煬帝

中大兄皇子

聖徳太子がいなくなった後、蘇我馬子の孫である蘇我入鹿が政治の実権を握るようになります。政治の中心が聖徳太子から蘇我氏に移ったのです。

これはまずいと考えたのが、中大兄皇子と中臣鎌足です。二人は645年に蘇我入鹿を滅ぼし、646年から新しい政治を始めていきます。これを大化の改新といいます。定期テストや受験では年号まで問われます。646年という数字は必ず覚えましょう。大化の改新は645年ではなく646年です。

646年 大化の改新

その後、中大兄皇子は天智天皇になり、日本史上最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作りました。戸籍とは私たちの名前を管理するものです。戸籍があるから山田太郎くんは山田太郎くんとして学校に行ったり病院に行ったりできます。戸籍は人がいろいろな活動をする上で不可欠なものですが、その戸籍がここで初めて誕生しました。

天武天皇

天武天皇のやったことは

①壬申の乱に勝利し ②古事記・日本書紀を作らせた

とまとめられます。

天智天皇の後、誰が天皇になるかで争いが起きます。大友皇子(おおとものみこ)大海人皇子(おおあまのみこ)の二人です。結局、大海人皇子が勝利し、天武天皇になります。この争いを壬申の乱(じんしんのらん)といいます。

672年 壬申の乱

天武天皇最大の功績は古事記・日本書紀にあります。古事記と日本書紀は日本の歴史書です。私たちが昔の日本を知ることができるのも古事記と日本書紀があるからです。天武天皇は私たちと昔の日本をつなぐ重要な役目を果たしていると言えます。

※古事記と日本書紀は成立過程が曖昧。古事記は実際には稗田阿礼という者によって書かれた。

ここまで天武天皇をざっくりとみてきましたが、実際はさまざまな政治的改革を行っています。

飛鳥時代から奈良時代にかけて大宝律令が完成

飛鳥時代は聖徳太子、中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇の三人を中心に動きましたが、最後、飛鳥時代から奈良時代にかけて藤原不比等という人が出てきます。教科書では太字になっていないこともありますが、藤原不比等はとても重要な人物です。

701年 大宝律令

藤原不比等は701年に大宝律令を完成させます。大宝律令によって日本はようやく国らしい国になります。現在、文部科学省、財務省、経済産業省、環境省といった「~省」がありますが、この「~省」は大宝律令で初めて作られます。私たちが普段使っているお金は財務省という省に管理されていますが、この財務省は2000年まで大蔵省と呼ばれていました。この大蔵省という言葉は大宝律令にすでにありました。

大宝律令によって作られた省 ・大蔵省 → 今は財務省 ・宮内省 → 今は宮内庁 ・刑部省 → 今は法務省

今ある官庁が大宝律令で生まれたというのは驚きです。ちなみに「~大臣」という言葉も大宝律令からです。

今に続く政治の仕組みを作った藤原不比等は、実は平安時代に出てくる藤原氏(藤原道長など)の先祖です。

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[su_tab title="例題"]

1

問1 冠位十二階の制度を定めた人物の名前を答えなさい。

問2 天智天皇の後、大友皇子と大海人皇子が皇位継承のために争った。この戦いは何と呼ばれているか。

問3 701年に( 1 )が中心となって( 2 )を完成させて、朝廷の行政などを定めた。

問4 聖徳太子のいた時代にさまざまな文化が花開いていくが、これは中国や朝鮮から日本にやってきた者たちの影響があった。当時の朝鮮半島にあった三つの国を答えなさい。

問5 蘇我馬子は有力豪族の( 1 )と( 2 )天皇を倒し、聖徳太子とともに政治を行ったとされる。

問6 遣隋使として日本から随に送られた人物は誰か。

問7 日本史上最初の戸籍を作った天皇は誰か。

問8 大化の改新は何年のことか。

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1

問1 聖徳太子

問2 壬申の乱

問3 藤原不比等、大宝律令

問4 高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)

当時、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済と呼ばれる国がありました。高句麗は今の北朝鮮から中国北部、新羅は朝鮮半島南東部、新羅は朝鮮半島南西部に位置し、660年に百済が滅亡するまで朝鮮半島は三つに分かれていました。中国や朝鮮から日本にやってきた渡来人(とらいじん)が日本の文化に強く影響したと考えられています。

なお白村江の戦いが起きた時、百済はすでに滅亡しています(白村江の戦いは663年)。

問5 物部守屋、崇峻(天皇)

蘇我馬子と物部守屋は仏教を受け入れるか受け入れないかで激しく対立し、蘇我馬子が戦いに勝ったことで朝廷は仏教を受け入れることになりました。また崇峻天皇はもともと蘇我馬子の力で即位できた人物であり、当時蘇我馬子は絶大な権力を握っていたため、蘇我馬子と対立した崇峻天皇もまた蘇我馬子に殺害されてしまいます。

587年 蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす 592年 蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺

問6 小野妹子

問7 天智天皇

問8 646年

646年に『改新の詔』が出された後、朝廷はさまざまな政治的改革を進めていきます。これを大化の改新といいます。蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足によって滅ぼされる事件は乙巳の変(いっしのへん)であり、大化の改新に含まれません。 [/su_spoiler] [/su_accordion]

2

問1 聖徳太子はもともと何と呼ばれていたか。

問2 645年に蘇我蝦夷と蘇我入鹿を滅ぼした二人の人物を答えなさい。

問3 聖徳太子は( 1 )天皇を補佐として( 2 )という立場についた。

問4 大宝律令によって大蔵省などの役所が作られたが、このうち九州北部の支配と管理を任された役所を何というか。

問5 聖徳太子が建造し、世界文化遺産に認定された寺を何というか。

問6 660年から670年頃にかけて朝鮮半島ではある国が他の国を滅ぼして統一したとされている。この統一した国の名前を書きなさい。

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2

問1 厩戸皇子(うまやどのおうじ)

問2 中大兄皇子、中臣鎌足

問3 推古天皇、摂政

問4 太宰府

問5 法隆寺

問6 新羅 [/su_spoiler] [/su_accordion]

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[su_tab title="基本問題"]

1

問1 聖徳太子は十七条憲法において「三宝を敬へ。三宝とは( 1 )・( 2 )・( 3 )なり」と述べている。

問2 日本が百済を復興するために唐と新羅と起こした戦争を何というか。

問3 法隆寺金堂釈迦三尊像の作者を答えなさい。

問4 小野妹子が派遣された当時の随の皇帝は誰か。

問5 中大兄皇子は668年に(  )天皇になった。

問6 聖徳太子がいた頃の文化を飛鳥文化というが、その次の7世紀から8世紀初頭までの文化は何と呼ばれているか。

問7 下の作品名を答えなさい。

takamatsu-kofun

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1

問1 仏、法、僧

聖徳太子は十七条憲法において仏教の重要性、そして仏、法、僧を敬うように述べています。『法』とは仏教の教えをいいます。なお『僧』という地位がきちんとできるのは奈良時代に鑑真が戒律を定めてからです。例えば聖武天皇や孝謙天皇が鑑真から戒を受けました(受戒)。受戒は、僧になるために必要な儀式のことです。

問2 白村江の戦い

問3 鞍作鳥(くらつくりのとり)

鞍作鳥は飛鳥時代を代表する芸術家で、聖徳太子の時にさまざまな作品を残しています。中でも釈迦三尊像と玉虫厨子(たまむしのずし)は有名です。

問4 煬帝

問5 天智(天皇)

問6 白鳳文化(はくほう)

白鳳文化は飛鳥文化の次の文化で奈良時代までかかっています。遣唐使を通して伝わってきた唐の文化の影響を受けており、代表的な作品に高松塚古墳壁画や薬師寺金堂薬師三尊像などがあります。

問7 高松塚古墳壁画 [/su_spoiler] [/su_accordion]

2

問1 670年に作られた戸籍を答えなさい。

問2 日本が白村江の戦いを起こした目的を記述しなさい。

問3 白村江の戦いの後、日本は九州北部に( 1 )と呼ばれる兵を置いた。( 2 )には( 1 )のよんだ和歌がもりこまれている。

問4 大宝律令後、(  )が地方のそれぞれの地域を治めることになった。

問5 中大兄皇子たちが蘇我氏を滅ぼした事件は何と呼ばれているか。

問6 聖徳太子が随の煬帝に送った国書に「日出処の天子…」という有名な言葉がある。これは中国のある文書に残されているが、この文書の名を答えなさい。

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2

問1 庚午年籍(こうごねんじゃく)

問2 百済を復興させるため。

問3 防人、万葉集

問4 国司

大宝律令は中央と地方の行政を分けており、地方行政は国司が担当することになりました。国司は現在の知事のようなものと考えるとわかりやすい。なお国司はそれぞれ軍事力を持っています。

問5 乙巳の変

645年に乙巳の変が起き、中大兄皇子と中臣鎌足に支えられた孝徳天皇が646年に大化の改新を行っていきます。ただし実際にどのような改革が行われたかはよくわかっていません。乙巳の変と大化の改新により朝廷に権力が集中し、中央集権国家への道が開かれました。

問6 隋書倭国伝 [/su_spoiler] [/su_accordion]

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