地頭を鍛える三つの方法

地頭という言葉が流行っています。地頭は本当の頭の良さという意味の言葉で、自頭と書く人もいます。本当に『本当の頭の良さ』というものがあるかどうかわかりませんが、仮にあるとして地頭を鍛える方法を三つ紹介します。

・疑問する ・発信する ・改善する

以上の三つです。

現象と分析に疑問を持つ

「なぜ空は青いか?」という現象に対する疑問は小学生の知的好奇心と理科の理解力を育むでしょう。疑問は仮定や分析を生み、それがさらなる知識と教養につながるからです。ひょっとしたらニュートンも「なぜ物体は落ちるか?」という疑問に徹底的に当たったから万有引力の法則を見つけたのかもしれない。ニュートンのリンゴの話は有名ですね。

疑問は現象だけでなく自分や他人の分析も対象になります。「自分の考えたことは本当に正しいか?」という疑問です。自分の分析に疑問する癖がないと、自己正当化に慣れて柔軟性を失ってしまう。世の中が求める地頭はある種の客観性や柔軟性も要求しており、自己疑問は地頭力を鍛えるための最低限の努力と言えるでしょう。

また他人の分析、特に権威者の分析にも疑問を持つ必要があります。「学者先生の言うことだから間違いない」という盲目的姿勢を脱して、「学者の言うことであっても、ひょっとしたら間違っているかもしれない。自分で確かめてみよう」と考える。他人の分析に疑問すると、自分で分析しよう、自分で解決しようという意欲がわいてきます。

文章を書いて論理的妥当性の感覚を身につける

勉強するべきか、部活に入るべきかなど、学生の方はいろいろな悩みや問題を抱えていると思います。大人は大人でどのように仕事をするべきか、消費税は上げるべきかといった社会的な問題を抱えています。こうした問題は数学のように明確な答えが用意されているわけではないため、論理的に考えようとしてもその論理性が成り立っているかわからなくなってしまうことがあります。

考えや意見に完全な論理性はありません。代わりに論理的妥当性があります。

ここで論理的妥当性を、不完全な論理構成に感情と常識が混じったものと考えてください。例えば勉強するべきかという問題に対して「一生懸命勉強していい大学に入ってもいい人生が送られるとは限らない。よって勉強は無意味である。よって今遊びまくる」というなんちゃって三段論法を掲げては、おそらく地頭がいいとは言われない。地頭は単なる論理武装でなく、一般的な常識や感情を含めた妥当性も要求するからです。

だからと言って感情論に走っても地頭がいいとは言われない。最低限の論理性を備えつつ、一般常識や感情によって論理的不完全性を補うこと(妥当性を持たせること)が評価されます。

そして文章を書くという行為はこの論理的妥当性を身につける手っ取り早い手段の一つです。文章を書いてしばらく経って読み返したとき、「どうしてこんなめちゃくちゃなことを書いていたんだろう?」と思った経験は誰しもあると思います。それはおそらく書き手から読み手になった自分の求める論理的妥当性がそこに欠落しているからです。

文章を論理的に書くのは意外と大変です。書いている目的や文章の構造を常に意識していないと、その文章は簡単に破綻します。きれいな文章を書く訓練を続けていれば、論理的妥当性というものの扱いに慣れてくるはずです。

自分を改善しない人間は堕落する

人間は改善の努力を怠った瞬間、あっという間に転落します。「本当の頭の良さ」である地頭も怠惰が続けば崩れていく。年を重ねるにつれてさまざまな記憶が消えたり、できていたことがができなくなったりするのと同じように。

だから「あの人はずっと要領よくやっているな」と思っても、それは単なる地頭の良さで片付けられるものではない。十中八九その人は持続的に自分を改善しているはずです。

そして改善の出発点の一つは先に述べた『疑問』です。自分に対する疑問。「自分は本当に正しいか?」という疑問があって、ようやく改善というエンジンがかかります。

地頭は総合的な能力である

数学が著しくできる力も際立った言語能力も地頭の一つの性質にすぎず、学歴の高さもTOEICの点数も地頭の証明にならないでしょう。以上見てきたように地頭は極めて総合的な力であり、ある意味オリジナリティに富む力です。

ひょっとしたら世の中が求める地頭という総合的な能力は、自分という付加価値をうまく生み出すことのできる力と言えるかもしれません。『うまく』というのは、自分の個性と環境(社会)の常識の折り合いをつけられるという意味での『うまく』です。

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