高校倫理 功利主義とベンサム:教科書に載っていない「苦痛の計算」から現代社会を考える

功利主義は高校倫理で最も重要な思想の一つで、ベンサムの考え方は現代の資本主義社会にも大きな影響を与えていると考えられます。ここではベンサムの思想を高校倫理の範囲で復習しつつ、今の私たちがベンサムから学ぶべきものを考察します。

快楽は善、苦痛は悪である

ベンサムは快楽は善、苦痛は悪であると考えました。ここで『快楽』とは広い意味での『幸福』です。私たち一人ひとりの幸せです。ベンサムの『快楽は善、苦痛は悪』という考え方は実に理にかなっていますが、この『理にかなっている』という認識が当時からあったかどうかは怪しいところです。私たちは合理性を追求する社会に生きているからベンサムの考え方に納得できるのかもしれません。

例えば『今年から学校の授業が一日十五時間になる』という法律ができたらどうでしょう? あまりのハードスケジュールでほとんどの人はヘトヘトになって、学校に行かない人も出てくるに違いありません。よって『今年から学校の授業が一日十五時間になる』という法律は悪と考えられます。

逆に癌の特効薬が開発されたらどうでしょう? これほど私たちの幸せを増やしてくれるものはありません。つまり癌の特効薬は最高の善の一つと言えます。

「なにを当たり前のことを言っているのだ?」と思われるかもしれませんが、この当たり前のことを理論的に説明したからこそベンサムは哲学史に名前を残しました。当たり前の考え方は当たり前であればあるほど、その時代ではその理屈の説明が困難なものです。

またベンサムは快楽は計算できると考えました。ベンサムは快楽を量的に扱ったのです。このことからベンサムの功利主義は量的功利主義とも呼ばれますが、この発想はなかなか大胆ですね。ひねくれた見方をすれば「お金がすべて!」と言っているような気がしないでもありません。

しかしここで次の疑問が生じます。筆者が高校生だった当時に抱いた疑問です。

「教科書に快楽は計算できると書いてあるが、苦痛は計算できないのか?」

ベンサムが快楽を正、苦痛を負のものと経済的に考えていたとすれば、計算できると言えるかもしれません。

ここで『苦痛の計算』というポイントを取り上げたのは、次に説明する最大多数の最大幸福という公共的利益が個人的利益と相反し、しばしば個人の苦痛になるからです。例えば今の消費税増税を考えてください。賛否両論ある消費税増税ですが、消費税増税は財政健全化の意味で公共的利益であると同時に食料品などの負担が大きい個人と家族に大きな負担となります。多くの人は消費税増税を苦痛と感じるでしょう。

ベンサムの『快楽は計算できる』という思想が本当に現実的かどうかは、実は『苦痛は計算できる』かどうかと深くつながっています。ベンサム流では公共的利益と個人的苦痛の合計値がマイナスであればその政策は間違った政策であるからです。ベンサムの思想を現代に活かそうとするならば、苦痛の計算も可能であると仮定する必要があるでしょう。

最大多数の最大幸福

ベンサムと言えば『最大多数の最大幸福』。これはできるだけ多くの人たちができるだけ多くの幸福を得るような選択を社会(政府)はとるべきだという考えです。注意しなければいけない点は『最大多数の最大幸福』の政策に各人が従うとは限らないということで、ここに功利主義の政治的側面が表れてきます。

例えば法律案AとBがあり、Aを選択すれば国民の90%が満足し、Bを選択すれば国民の10%が満足するとした時、政府はBでなくAを法律にするべきでしょう。また法律案CとDがあり、どちらも国民の50%が満足するが、DよりもCのほうが満足度が高いとした時、政府はDでなくCを法律にするべきでしょう。

ここからは筆者の考えになりますが、この最大多数の最大幸福はある意味民主主義と選挙制度によってすでに実現されていると考えられます。多くの例外はあるにしても、政府は基本的に多くの人が幸せになるような政治を常に模索し、実行しています。多くの人が不幸になる政策を実行すれば、内閣の支持率はあっという間に下がり、政権が変わってしまうからです。

つまりベンサムの最大多数の最大幸福という功利主義的思想はそれ自体では存立せず、ロックやルソーたちが作り上げた社会契約論と民主主義の原理と合わさってようやく現実的なものになると考えられます。この考え方は当ページオリジナルで教科書的な事項でないため注意してください。

ただしベンサムは民主主義についてもある程度言及しています。最大多数の最大幸福を主張する以上、一人一人は平等であると主張せざるを得ないからです。しかし一人一人は平等と言いながらも、ベンサムは女性の参政権について特に述べていません。男女不平等の問題がいかに歴史的に根深いか垣間見えます。

最大多数の最大幸福と世代別人口の問題

最大多数の最大幸福は一人一人を平等の存在とするため、政治的には若年層も高齢層も同じように扱われます。現代の日本社会は高齢化社会で国民の多くが高齢者であるため、最大多数の最大幸福は高齢者を優遇する政策をとります。しかし一方で国民の大半が若年層という国もあり、そこでは最大多数の最大幸福は若年層を優遇する政策をとります。

最大多数の最大幸福はあくまで理論であり、実際の政策は最大多数の最大幸福に愚直に従っているわけではないものの、世代によって人口に差があることは注目すべきポイントです。

誰を政策の主人公にするか。単純な人口比率で考えるか、子育て世代にスポットを当てるか、高齢者にスポットを当てるか、大学生にスポットを当てるか。非常に難しく、非常にややこしい問題です。

結局、最大多数の最大幸福という思想は人口ピラミッドが本当にピラミッド形では正常に機能しないということです。高齢化社会は社会保障のみならず経済の根本を歪めてしまっていると言えるでしょう。

最大多数の最大幸福と苦痛の計算

最大多数の最大幸福は快楽を受ける側の計算ですが、現実問題として快楽を受けない側、あるいは苦痛を受ける側の計算も必要でしょう。

例えばある政策が国民の99%を少し幸せにするが、残りの1%を著しく苦痛にさせる時、最大多数の最大幸福ではこの政策は良しとされてしまいます。つまり最大多数の最大幸福を文字通りに追っかけると、うがった見方をすれば村八分的な政策が善となってしまうのです。