「私は社交性がないかも…」「あの人が大嫌いだ!」という心配と怒りをおさえる方法

中学生くらいになると「僕(俺、私)は社交性がないかも…」と悩む時があります。それはだいたいささいな日常の中でふわっと表れます。本当にささいなこと、例えば好きな芸能人がみんなと違っていたり、休み時間の使い方がみんなと違っていたりする、自分と他人のさまつな違いから、自分の社会性に対する不安が芽生えるのです。

一方、思春期に入ってくるといわゆる自我が出てくるため、嫌いという気持ち、他人を憎む感情がおさえられなくなる時があります。小学生までの怒りや憎しみはどこかうつろで、あいまいです。しかし中学生と高校生のそれは自分でその強さを確認できるほど具体的な観念です。

今回はこの不安と怒りをおさえる方法を考えてみたいと思います。

社交性がないという不安は成長の証である

自分の社交性、社会性に対する疑惑は人間的成長の第一歩です。それは環境における自分を客観的に分析している証拠だからです。

だから「私はみんなと違う…だいじょうぶかな…」と思ったら「そうか、そう思っているということは、自分が成長した証拠なのだ」と前向きに思ってください。そして大人になったということは、自分を改善できるということです。

そしてなによりも、社交性(社会性)があるかないかという問題は実にどうでもいい問題です。自分の自信のなさというものもまた、非常にどうでもいい問題です。社交性というものは後からいくらでも補修できます。

それよりも、自分に不安を抱いているという精神的健康に注目するべきでしょう。「自分は健全に成長している」と考えれば、不安を少しおさえられると思います。

自分はそれほど注目されていない

他人という存在は実はとても冷たい存在です。自分が想像しているほど、他人は自分に関心を持っていません。これは本当です。

学校は狭い空間で、四六時中同じ人と話しているから、自分と同級生の距離がいい意味でも悪い意味でも近いように思われますが、それはただの錯覚です。自分自身の心の動きをよく分析するとわかるはずです。あなたは同じ人を意識し続けていますか?(恋人だったら話は変わってきますが…) あの人が言ったあの言葉をいつまでもいつまでも意識し続けていますか?

自分がある人、あるいはある人のあの言葉というものをずっと意識しないのと同様、他人もまた自分という人間、自分がしゃべったことをずっと意識することはありません。他人も自分と同様、あれ食べたい、あれがしたい、早く授業が終わらないかな、塾行きたくないな、などと考えているわけです。

仮にあなたがちょっと変わっているとして、いわゆる社交性がちょっとなかったとしても、それが他人に与える影響は本当に微々たるもの。あなたを「社交性のないやつだ」と思っている人がいたとしても、その人があなたという人間をしつこくしつこく「あいつは社交性がない。あいつは嫌なやつだ」と四六時中思っているわけがありません。もしそんな人がいたら、その人のほうこそ社会性がないといえるでしょう。

社交性の欠如という不安の九割は、ただの妄想です。残り一割は、残念ながらおそらく真実です。

しかし社交性がパーフェクトな人はこの世に存在しません。みんな、どこか変わっていて、どこか社交性が欠如しているのです。その真実をどのように埋めていくかが、一人ひとりの人間的成長に大きく貢献します。

あいつが大嫌いで大嫌いでしょうがないという時

話を変えて、テーマの後半の憎しみと怒りについて考えてみます。

「あいつが本当に嫌いでしょうがない」という時、どうしますか?

その人の悪口を友だちに言いますか? それをやったらおしまいですよ。人の悪口を言ったら、結果的に自分が損します。なぜなら悪口を言う人は最終的に信用されないからです。信用されない人間は孤独になるからです。

その人を好きになる努力をしますか? おそらくそれが最も優れた答えだと思いますが、なかなか難しいですね。

無関心が最強の防御である

「あいつが本当に嫌いでしょうがない」という時は、その人に対する関心を意図的に削いでください。徹底的に無関心になるのです。

無関心になれと言われても最初は難しいかもしれない。でも間違いなく「好きになる」より「無関心になる」ほうが楽です。嫌悪感を否定するより、嫌悪感を捨てるほうが楽です。

なぜ前半で『社交性に対する不安』を取り上げたかというと、社交性に対する不安も、他人に対する嫌悪感も、『人間の無関心』を意識することでいっぺんに解決できるからです。前者は他人の無関心を、後者は自分の無関心を意識することで、ストレスがやわらぎます。

無関心という言葉の冷たい響きとうらはらに、無関心というものは自分の心を守るための最大の防御になるのです。