クリティカル・シンキングと失敗を褒める教育

日本がアメリカやドイツより労働生産性が上がらない理由、先進国の中で国際競争力を落としている理由を考えていくと、行きつくところは常に教育になる。私は大学院の仮論文のテーマを日本の国際競争力にした。そのときに日本の経済的な問題と国際競争力を調べていたが、そのときから行きつくところが教育になる考え方は変わっていない。

問題は自分で作る

という方針は、どの学校(や塾など)もとっていない。私がもし公立学校の校長だったら、クリティカル・シンキングの要である「問題の認識と提案」を積極的に推進したい。ドリルや問題集を与えて、定期テストで記憶と理解をチェックする。これは20世紀の終わりに終わった教育だ。

世界に未知が満ちている。これはギャグではない。未知が多くなった分、自分で新しい知識を求める力が必要になった。これは一種のフロンティア精神である。つまり知識そのものよりも探究心やタフさが必要になったのだ。

東京のなにが問題だろう? 渋谷のあちこちが臭いのは下水管に問題があるからではないか? どうして電柱と電線をすぐに地中化できないのか? どうして東京は地方から人を奪うのか? こうした問題を自分で見つけて、自分で解決を提案するような探究心を育てることが重要だ。しかしこうした課題授業を採用している学校はあまりない。

行動しない

日本が国際競争力を失っている理由はたくさんある。そして複雑だ。歴史的な流れと経済的な束縛を一方向から分析しても解決にならない。そもそもそうした単純な答えはない。しかしあえてバッサリ切り捨てるように判断すると、行動しない国民性という原因がある。

黒船がきたときに日本人はまじまじと黒船を観察してああだこうだと言っていたが、それを利用しようと実際に行動した人間はほとんどいなかった。中学受験のテキストにあるええじゃないか運動は口だけの人間による運動だった。

行動は実験をともなう。つまり失敗をともなう。しかし残念なことに、日本はなるべく失敗を回避しようとする。少なくとも教育と受験の制度は人間をそのように習慣づけるようだ。

失敗を褒める

行動するためには失敗を褒めるような文化が必要だ。日本の教育は私の親、その上の世代からあまり変わっていない。つまり東大という最終目標があり、そこに入る卒業生の数でピラミッド構造が高校、中学まで形づくられて、試験と問題集のタイプまで影響する。

数学の細かい公式をパターン化された方法でつなぎ合わせて高速で解くような問題を、貴重な成長期間を犠牲にしてガリガリと解いていく。彼らにとって失敗はわずかな失敗にすぎない。失敗とはその日に問題が解けなかったことを意味する。

しかしより「いい失敗」は、社会と自分の関係を必要とする。容赦のない批判や絶望は常に他人の冷酷さからやってくる。孤独になった失敗は、陶酔感だけをふくらませる。いい失敗は、他人への挑戦をともなうことで豊かな経験に結びつく。

教育に必要なものは、本当の意味での保護だ。失敗は本人をとても傷つける。失敗は他人の口や言葉や数字を借りて、その人の自尊心をひどく傷つける。学校に必要なことは、その失敗を奨励することと、傷ついた自尊心を回復させること。実際の教育は社会に任せたほうが効率いい。

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