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無限の有限化による数学と言語の限界

すべての学問は必ず表現を通して人間に知覚されるため、表現の域を出ないと考えられる。表現は数式と言語の二種類であり、どちらも組み合わせは有限である。

表現は一定の学問的領域を前提とする

整数は無限であり、実数もまた無限であるが、両者は本質的に異なる。しかし数学の枠外にある哲学上の議論はこれらを無限というひとくくりにする。この言葉は確かにその学問領域においてある種の妥当性をもつ。

しかし古い哲学は無限という言葉から神的なものから宇宙的なものまでさまざまなものをイメージさせて、学者はそれらを無限というカテゴリーのものとして論じてきた。現代の物理学者もまた宇宙をリーマン幾何学という一つのカテゴリーにおさめて議論している。

学問の裏付けとなる定義と道具は有限個である

物理も数学も定義は有限個であり、材料も有限個である。物理と数学は20世紀になって抽象化し、具体的な世界の記述を抽象的な世界における推論によって達成しようと考えている。しかしこの抽象的な世界は、有限個の定義と有限個の材料(数値的というよりは学問上の意味)によってできている。

すべての現象は因果の無縁の無限の原理からできていると仮定できる

社会は、科学だけでなく言語、文化、歴史、各個人の教育と行動などの相互作用によって非常に複雑に変化している。そして社会もまた科学の領域に影響する。社会が発展し、工業が発展した結果、二酸化炭素が増えて地球温暖化の世界になったことは、社会的世界と物理的世界が相互に関わっている証拠である。

自然は機械にように動いている。あるいはいくつかの諸原理に材料が放りこまれて、いろいろな現象がベルトコンベアに乗せられて時系列に並ぶという考えは、社会が自然に与える複雑な影響によって妥当でなくなる。

つまり機械論的自然観はすでに古典的でまったく妥当でない。

一人ひとりは右にいくか、左にいくかという判断を自由に決定できる。これは社会的に考えればミクロのランダム性であり、ちょうど物質がミクロレベルでランダムになっていくことと対応する。

このランダムさを無理に因果律の中で定義しようとすると、無限の原理と材料が必要になる。有限の原理と材料からランダムな事象は起きないからである。

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