役に立たない自己啓発本を買うのは、自分が役に立たない存在だからだ

役に立たない本を読むのは、自分が役に立たない存在だからである。自己啓発本のほとんどは、おそらく何も啓発しない。啓発されて役に立つ存在になる唯一の方法は、世界史と生物を勉強することだ。

自己啓発本について

私が大学生の頃、ある女性の自己啓発本が電車の窓ガラスに貼りつけられるようになった。この本とメディアでの活躍によって、彼女は自己啓発セミナー講師の偉大な先駆者になった。私は彼女を尊敬し、その本を立ち読みした。

彼女は素晴らしい人間だったが、その後の有象無象の講師は素晴らしさを微塵も持っていなかった。私は愚鈍である自覚とともに、これらの悪意を書店で立ち読みした。大学院生だった時、機嫌の悪かった私は同級生に「自己啓発本は産業廃棄物だ」と言った。

「おいおい、俺は四冊も買ったんだけど?」

と言われてから、私は彼と不仲になった。

役に立たないものは経済的に循環する

私はとても愚かで役に立たない存在かもしれない。しかし自己啓発本もほとんどは役に立たない。理性の啓発が経営者や法律家の言葉によって引き起こされることはない。

誰々の「一日~時間~すれば成功する」というセリフを鵜呑みにすることは、ほとんど役に立たない。自己啓発本で役に立つものは書店の売上ランキングしかない。役に立たないものでも利益になる可能性があるという指標は役に立つ。都合のいい男女平等で損する人間の記事でブランドの価値をあげたが、私はブランドの異常な価格の高さよりも、ほとんどの自己啓発本の存在そのものに嫌悪感がある。

役に立たない本の読者は役に立たない存在だ。なぜなら役に立たない読書は時間の浪費であり、役に立つ存在は時間を(金を払っても)節約するからだ。役に立たない商品と同様の存在が経済的につながっている。

ここで「役に立つ存在」と言ったのは、誰しも「役に立つ存在」であると同時に「役に立たない存在」であり、ここで批判している対象は人間そのものではなく、人間の退廃した側面である。

自己啓発は世界史と生物から得られる

もし私が文部科学省の官僚だったら、文理の別を解いて世界史を数学と同様に扱う。イギリスのある教育学者が、各国の教育はどれも国語と数学に偏重していると皮肉っていたが、もはや数学は別格扱いされる学問ではない。これは私が数学科出身だから言うことだ。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶという言葉がすべてを語る。人間は有限だが、個人はさらに有限だ。ニーチェの永劫回帰のように私たちの理性は愚かにも同じところを回っている。人間の意義と成功を垣間見たいなら、すでに回帰している歴史を学ぶだけでほとんど足りる。

歴史はしかし愚かな産物でもある。戦争は愚劣であり、平和はほとんどないに等しい。そこで生物と遺伝が重要な知恵になってくる。

七人の偉大な哲学者でダーウィンをあげたが、私は「遺伝」と「進化」は人間の歴史と哲学を決定的に変えたと考えている。生物は競争して繁栄し、大半は絶滅する。平家物語の無為自然を勉強する前に、森に入って数々の植物を見れば、この世界の残酷な真理がわかる。

弱さや不適応は繁栄にあまり貢献しないが、それでも儚さと生存をうまく調節して生きのびている種が存在することは、自己啓発本以上に私たちを啓発する。そしておそらく、生物の観察によって何も感動しない人間は永遠に啓発されることはない。

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