「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の結論と神の存在証明の結論

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」は昔から考えられてきた問題で、存在の理由を問うものです。

ウィキペディアにある説明を見て、「なるほど~」と思うものもあれば、「う~ん」と思うものもありました。昔の学者は本当にいろいろなことを考えたんだな、と痛感しました。

なぜこの問題を今さら思い出したかというと、ビジネスや経営において「なぜ?」が重要であるといった記事をよく見かけるようになったからです。人間は本当に why が好きであり、その気持ちが中心となって学問もビジネスも発展するのだと思います。

存在に理由はありません

しかし、存在に理由はありませんよ。

例えば「なぜ2-1=1なんですか?」という問題にどう答えますか? なぜ2-1=1かというと、1+1=2だからですね。

でもこれは間違っています。2-1=1に理由はないです。2-1=1と1+1=2は同値なので、互いに互いの正当性の根拠となっている。これは理由ではない。

同じように、自然現象に理由というものはない。理由というものは、人間がある有限の部分をとりだしたときに出てきます。「なぜりんごが落ちるのか?」「万有引力の法則があるから」というのは、りんごと万有引力の式をとりだしているにすぎません。

(「なぜ万有引力の法則が成り立つのか?」を考えてください。りんごが落ちるからですね。りんごが落ちる、みかんも落ちる、猿も木から落ちる、だから万有引力の法則が成り立つ。現象と法則ですら、お互いに理由になっていない)

因果というものは、いわば局所的なもの、狭い世界でしか成り立っていないものです。しかしもっと視野を広げれば、さっきの足し算と引き算のように、すべての事象が同値であるという、ただそれだけのことにすぎないとわかるでしょう。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の結論

「なぜ何かがあるのか?」はそもそもの問いかけが間違っています。「なぜ」はないからです。あなたが存在しているのは、あなたが存在しているからにすぎません。トートロジーこそが正解です。

人はどこまでも貪欲に理由を考えるので、トートロジーみたいな発想を無意識に避ける。昔の学者の考えを侮蔑するわけではない。ただ、いたずらに難しく考えていることに、私は納得できない。

存在は存在によって成り立っている。だからこそ、存在を分析するときは、存在と存在の関係を分析する。存在そのものに存在と存在の関係性がふくまれているからです。そしてこの事実は、存在に理由がないこと、言ってしまえば理由などというものがはなっからないことを、暗に言っています。

現象と法則、具体と抽象という対立を超越しよう

難しく考える必要はないと思います。みんな、現象と法則を分けたがっているだけです! 根源的な問いかけは重要ですよ。その問いかけによって科学が発展して、今の世界があるので…。ただ、究極というものはないのです。あらゆる理論は、ある部分を切りとって、無理やり因果をはりつけているにすぎません。

統一的な理論というものもなければ、根源的なものもない。あるのはいつも断片にすぎないし、分析できるものもいつも断片にすぎない。なので、ビッグバンとか、神とか、いっさい考えるのムダ。

ここはすべての物理学者とか数学者とかに言ってやりたいことなので、強調しておく。

ビッグバン? そんなの考えること自体がムダ。

数とはなにか? そんなの考えること自体がムダ。

神はいるのか? そんなの考えること自体がムダ。

なぜなら、答えなどなく、問いかけがそもそも間違っているから。

タイトルに「神の存在証明」を書きましたが、神の存在証明などというものも当然できないし、考えることそのものがムダ。「神の存在証明」も昔からずっと考えられてきた哲学的な問いですが、神は部分でなく全体なので、神について考えることはできない。できることは、信仰のみ。

最後に。why よりも how のほうがよっぽど人間的であり、健康的な発想だと思います。どうして存在するか? じゃない。どうやって存在していくか、つまり、どうやって生きていくべきか、という人間性を自身に問うことが、百倍重要だと思いますよ!

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