高校日本史 幕末

幕末の基本 ★

幕末は江戸時代と切り離して考えるとわかりやすい。江戸時代をペリー来航で区切り、ペリー来航前をいわゆる江戸時代、ペリー来航後をいわゆる幕末と考えよう。すなわち幕末はペリー来航(1853年)~大政奉還(1867年)である。

幕末の年表 1853年 ペリー来航 1854年 日米和親条約調印 1858年 安政の大獄 1860年 桜田門外の変 1862年 生麦事件 1863年 薩英戦争 1864年 禁門の変 1866年 薩長同盟 1867年 大政奉還

ペリー来航から10年あまり国内は混乱するが、ターニングポイントは1866年の薩長同盟であり、そのわずか1年後に大政奉還となる。

幕末を効率的に理解する

幕末は思想と思想のぶつかり合いであるため、思想を知ることが幕末理解への近道となる。正確性を欠くものの、最初は下のように把握するとわかりやすい。

長州 … 急進的 薩摩 … 中立的 幕府 … 保守的

まず倒幕運動の中心は長州にあると考えよう。幕末とは、長州が幕府を滅ぼす過程である。しかし長州は幕府と外国から攻撃を受けて幕府を滅ぼすための余力がなかった。そのため坂本龍馬は比較的中立的な立場をとっていた薩摩を長州の側につけた。実際、薩長同盟が生まれてすぐに幕府は滅びる。

ここで「急進的」という言葉を「尊皇攘夷」に、「保守的」を「鎖国」に置き換えよう。すると幕末の大きな二項対立が浮き彫りになる。つまり幕末とは、尊皇攘夷思想が鎖国思想を滅ぼす過程である。

幕末前半 ~鎖国思想が尊皇攘夷思想を叩く~

ペリー来航以後、尊皇攘夷思想が各地で盛り上がってくる。もちろん幕府はその活動を叩く。その代表例が「安政の大獄」と「八月十八日の政変(と禁門の変)」である。

鎖国思想が尊皇攘夷思想を叩く例 ・安政の大獄 … 井伊直弼が吉田松陰を死刑にする ・禁門の変 … 幕府・薩摩が長州を攻撃する

幕末後半 ~尊皇攘夷思想が鎖国思想を滅ぼす~

薩長同盟によって幕府を滅ぼすに十分な戦力が整うと、農民も「世直し一揆」を起こし、東海から畿内の民衆も「ええじゃないか」と踊り始める。尊皇攘夷思想が民衆レベルまで入りこむのだった。薩長が倒幕運動を始めると徳川慶喜はすぐに政権を朝廷に返還(大政奉還)し、薩長のクーデターによって天皇を中心とする新しい政府が生まれた(王政復古の大号令)。しかし徳川慶喜は領地返上の決定(小御所会議)を不服として新政府と対立し、大阪に逃れた。これらはすべて1867年の一年に起きた。その後、鳥羽伏見の戦いで慶喜は新政府軍に敗北し、江戸に逃れた。

1867~1868年の主な流れ 大政奉還 → 王政復古の大号令 → 小御所会議 → 鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦いは大阪の徳川慶喜と京都の新政府の戦いで、新政府が勝利したため慶喜は江戸に逃れるが、勝海舟と西郷隆盛の交渉によって江戸城の無血開城が決まった。鳥羽伏見の戦いは全国に広がり、戊辰戦争となっていった。