フランスの歴史をわかりやすくざっくり説明

はるか昔、フランスはかつてガリアと呼ばれていた。いつしかゲルマン人の中のフランク人が今のフランスに住むようになった。

メロヴィング朝

481年、クローヴィスがフランク人を支配しメロヴィング朝フランク王国をつくる。しかしこのときの支配地域はまだフランスの一部であった。

クローヴィスはカトリックである。

クローヴィスの死後、フランク王国はいくつかに分かれてしまうが、その一つを治めていたカロリング家が力を強めていく。

カロリング朝

やがてカロリング家がフランク王国を実質的に支配するようになる。カロリング家のピピン三世はローマ教皇の支持を受けて、フランク王国の王となった。

これよりカロリング朝が始まる。

ピピン三世の子、カール大帝はフランク王国を長く統治し、800年に西ローマ帝国皇帝となった。

ヴェルダン条約

カール大帝の死後、フランク王国の分割相続が失敗し、戦争が起きる。そして843年にヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は三つの国に分かれることになった。

西フランク王国 東フランク王国 中フランク王国

この三つはそれぞれフランス、ドイツ、イタリアになっていく。

西フランク王国→フランス 東フランク王国→ドイツ 中フランク王国→イタリア

注 あくまでもざっくりとした説明

つまりフランスの歴史とドイツの歴史は完全に分けることができない。

カペー朝

西フランク王国では、ユーグ・カペーが王になり、カペー朝が生まれた。

当初弱小国に過ぎなかったカペー朝は、フィリップ二世のときに領土を拡大させる。

カペー朝はフランスの歴史をある意味で大きく変えることになった。それはローマ教皇との対立と和睦をくりかえしたためである。

中でもフィリップ四世はローマ教皇ボニファティウス八世と対立し、憤死させた。ボニファティウス八世の後、フィリップ四世はクレメンス五世を新しい教皇にさせた。

ヴァロワ朝

フィリップ四世の死後、カペー朝の血が断絶すると、ヴァロワ家のフィリップ六世がフランスの王になった。

しかしフィリップ四世の孫であるイングランド王のエドワード三世は自身こそフランスの継承者であると主張し、フランスのフィリップ六世とイングランドのエドワード三世は百年戦争を起こした。

ヴァロワ朝のとき、ヨーロッパで宗教改革が起きる。フランスではカトリックとカルヴァン(ユグノー)の対立が激化、ユグノー戦争が起きてヴァロワ朝は滅ぶ。

ブルボン朝

ユグノー戦争におけるカルヴァン派のアンリ四世がフランスの王になり、ブルボン朝が起きた。

アンリ四世の次王、ルイ十三世のときにヨーロッパで三十年戦争が起きる。三十年戦争はヨーロッパ全土を巻きこむ大規模な国際的戦争に発展した。

三十年戦争はウェストファリア条約によって終結し、フランスはアルザスとロレーヌを手に入れた。

続くルイ十四世のとき、フランスはいわゆる絶対王政を強める。一方、イギリスはすでに立憲君主制が確立していた。

フランスは次第にヨーロッパにおける権力を失っていく。

フランス革命

ルイ十六世のとき、フランス革命が起きる。

1789年のバスティーユ襲撃事件を契機として、ブルボン朝に対抗する市民の運動が起き、同じく1789年、フランス人権宣言が採択された。

1792年、ルイ十六世は処刑される。

ナポレオン

ルイ十六世の処刑後、フランスの政治は混乱した。その中、ナポレオンはクーデターを起こして独裁政権を樹立させる。

1804年、ナポレオンはナポレオン一世としてフランス皇帝になり、ヨーロッパ諸国との戦争によって領土を拡大させた。

しかしライプツィヒの戦いの敗北によってナポレオンは失脚する。