バカの壁と知性について〜知的な人間はどのような人間か?

数年前、バカの壁という本が流行りましたが、この記事はその本を読んだ感想ではありません。

このサイトで一番多い記事は高校倫理と現代社会で、よく「知性」について扱っています。地理以外の社会系の科目は意外にもこのようなデリケートでナイーブなテーマをとりあげるのです。

あらかじめ断っておくと、私(運営者)はバカと知性の壁はないと考えています。あるのは誰が誰について考えているかという角度だけです。

相対主義

ギリシア哲学はミレトス学派という自然哲学からソフィスト、そしてソクラテスとつながります。ソフィストの一人であるプロタゴラスは「人間は万物の尺度」という言葉を残していますが、授業ではそれくらいでさっと終わらせてソクラテスに入ります。


プロタゴラス

このプロタゴラスの主張は科学的には最もとんでもなく、社会的には最も普遍的だと思うのです。

科学では正しいものは正しく、誤りは誤りであるという区別がはっきりしています。もちろん実際はそうではないのですが、科学のあいまいさというものは、真理がはっきりした世界を超えた先にあります。科学は、あいまいさに至るまでに多くの論証と客観性をつけています。

しかし人間関係や社会ではそうはいきません。料理のマナーでさえ国と地域によって違い、さらには年齢によって認識が異なる。

「あいつは本当に失礼なやつだ」と言って、その人の知性を否定したとしましょう。しかしその失礼な人は、別の場所や地域ではそこまで言われないかもしれない。

バカも知性も、上品も下品も、誰がその人を判断するかでまったく異なる。まさに相対主義的な話になるわけです。

知性とは罪悪感である

ここまでは非常に当たり前でつまらない話であります。あの人は愚かであるとか、知性があるとか、そういった主張はすべて相対的で、判断する人によって異なり、実際ほとんどの人は「そんなこと当たり前じゃないか」と考えているでしょう。

しかし本当に相対主義的な認識しかなかったら、ほとんどの人が他人のものを盗んだり暴力をふるったりする悪人に堕落しているでしょう。現実は真逆で、ほとんどの人はそういった悪と無縁のところで生きています。

例えば、物を盗む瞬間を想像してください。恐ろしいはずです。そんなことをしてもいいのか? こんなことが許されるのか? とひどい罪悪感にさいなまれるでしょう。

その罪悪感は「盗んだら捕まる」という気持ちからもくるでしょうが、もっと違いところからもきます。その純粋な罪悪感こそが、私は本当の知性だと考えています。

この罪悪感は自分以外の誰も理解することができません。無意識のレベルでよみがえってくる罪悪感は、一種の本能のようなものです。この意味で、知性とは自分のみがその質を決定できる本来の性格といえます。

バカの壁とは罪悪感の有無かもしれない

バカの壁は他人が決定できるものでないと主張しておきながら、バカの壁について言うのは矛盾しています。しかしあえて言うならば、罪悪感の有無は知性の有無を決めるものになるでしょう。

罪悪感がない状態は、悪を意識的に肯定している状態ではありません。私たちは全員、意識的に悪を行っています。なぜなら完全な善は経済的にまったく成功しないからです。

これを読んでいる人の半分は高校生と大学生でしょう。学校の閉鎖的な空間に不満を持っている人、その空間で生きていくためにどこかで「他人を利用」している人もいるでしょう。いじめを目撃している人がいじめている人を非難しないのは悪です。しかし非難したら自分がいじめられるかもしれないという意識は、生きていくために必要な経済的合理性をもっています。

学生から大人になっても、私たちは経済的な活動を行って生きている限り、こうした悪から抜けることはできません。

ほとんどの人は自分の悪を認めて生きています。「だってこうしなければ自分が損するだけだ。これはしかたのない行為だ」と諦めて、小さな悪と罪を重ねているのです。

悪は悪でしかありませんが、その人の知性は完全に否定されるべきものではありません。

だからこそ悪を悪と思わない性格、つまり無意識的に悪を行っている性格が問題になってきます。バカと知性の壁は、罪悪感があるかないか、という点で考えられるかもしれません。

知的な人間とは、罪悪感にさいなまれている人間である

罪悪感をもっているかぎり、その人は知性をもっているはずです。

この記事では、他のエッセイと同様、私の自己主張で終わりにしたいと思います。キリスト教とニーチェから知性についてより深く考えてみます。

罪悪感は知性の証明書のようなものかもしれませんが、実はなにも力をもっていません。これはほとんどの人が実感しているとおりです。前述のとおり、小さな罪を重ねているのは生きていくためにしかたないことであり、それを放棄したら自分が滅びてしまう。つまり罪悪感に打ちひしがれている状態は、なにも生まないのです。

罪悪感と対面するのがキリスト教でした。このキリスト教を弱者の論理と主張した人がニーチェでした。センター試験でもよく出てくるこの人物は、力への意志という概念を残しています。


ニーチェ

しかしニーチェはキリスト教を完全に否定しているわけではありません。キリスト教を土台にして、厳しい競争社会でどのように生きていくべきかを考えているのです。そこで彼は、人生を積極的に受けとめる力強さを重視することになりました。

力強さとは、知性という点から考えれば、意識的に行っている罪にさいなまれながらも、合理的に生きていくことです。これは例えば「自分がいじめられるかもしれないから、いじめている人を非難しない」という決断を正当化しているわけではありません。自分のしている行動を反省しながら、そうした行動しかとれない自分の弱さを受けとめることが力強く、さらには知性も備えているのです。

広告