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第二次世界大戦後の昭和日本史まとめ

第二次世界大戦後の世界は、アメリカを中心とする資本主義世界とソ連を軸とする社会主義世界に分かれた。日本はアメリカGHQによる占領と朝鮮戦争による特需景気を経て、資本主義国として発展した。

GHQ

マッカーサーが率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、首相の幣原喜重郎に憲法改正と五大改革を指示し、日本の脱軍国主義、民主化、自由化を促した。

五大改革

・経済の民主化
・教育の自由化
・労働組合結成の奨励
・秘密警察の廃止
・婦人参政権の付与

GHQは幣原内閣が当初作成した憲法草案を認めず、1946年2月、英文の憲法草案(マッカーサー草案)を自ら作成した。日本政府はマッカーサー草案をもとに憲法を制定し、1946年11月3日に交付、1947年5月3日に施行した。

GHQは、経済民主化のために三菱・三井などの財閥の解体を命じ、独占禁止法や過度経済力集中排除法を定めてカルテルやトラストを禁じた。

教育面では、GHQは軍国主義的な教育を排除し、日本史の授業を一時的に停止した。1947年、教育基本法が制定された。労働面では、労働組合法を定めて、団結権、団体交渉権、労働争議権を認め、基準労働時間を8時間とした。

戦後直後の経済

戦後処理によって物・食糧不足と通貨の発行が進み、インフレーションによって円の価値が急激に低下した。幣原内閣は旧円の流通を制限するなどの措置をとった。

第一次吉田内閣は、資金を鉄鋼などの重要産業に集中させる傾斜生産方式をとったが、インフレーションは止まらなかった。最終的にアメリカの政治家・銀行家のドッジが物価の安定化などの諸政策を指示した。これをドッジ・ラインという。ドッジ・ラインの主目的は二つあった。

・インフレ抑制
・輸出振興

ドッジ・ラインを受けて1ドル=360円の固定相場制をとった。ドッジ・ライン後も景気は悪く、労働者の強い反発は続いた。

朝鮮戦争

1950年、北朝鮮軍がソウルを占拠し、朝鮮戦争が始まった。背景には中国共産党による革命の成功があった(1949年に中華人民共和国が成立)。アメリカは中国・北朝鮮軍と戦い、1953年に休戦した。

朝鮮戦争の間、GHQは日本に警察予備隊を編成を指示し、警察予備隊は保安隊に再編成され、さらに自衛隊になった。

出来事
1948 金日成が朝鮮民主主義人民共和国を宣言
1949 毛沢東が中華人民共和国が建国
1950 朝鮮戦争が始まる
1953 朝鮮戦争、休戦

日米関係

1951年、日本と48ヵ国でサンフランシスコ平和条約が調印され、国際的に日本国民の主権が認められた。1952年、日本はGHQによる占領から正式な独立国になった。

サンフランシスコ平和条約によって、第二次世界大戦における日本の賠償金は減ったが、台湾や千島列島などは日本の領土でなくなった。

サンフランシスコ平和条約の調印日と同じ日、日本はアメリカと安全保障条約を結んだ。この条約により、アメリカ軍は日本に駐留し続けることが可能になった。さらに1952年、日米行政協定を結ぶ。

1960年1月、日本はアメリカとの対等な関係を目指して「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、通称「新安保条約」を結び、日米行政協定の改訂版である日米地位協定を結んだ。

出来事
1951 サンフランシスコ平和条約
日米安全保障条約
1952 日米行政協定
1960 新安保条約
日米地位協定
1971 沖縄返還協定

新安保条約批准後、条約に不満をもつ学生が「60年安保闘争」といわれるデモを起こした。

1968年、佐藤内閣とニクソン大統領は沖縄返還に向けて首脳会談を行い、1971年、沖縄返還協定に調印した。

経済成長

ドッジ・ラインの定めた固定相場制(1ドル360円)、朝鮮戦争の特需、急激な人口増加によって、日本の経済は発展した。

出来事
1948 ドッジ・ライン
1950 朝鮮戦争勃発
1952 IMFに加盟
1953 テレビ放送が始まる
1955 GATTに加盟
1964 東海道新幹線が開通
東京オリンピック
1967 公害対策基本法
1970 環境庁発足
減反政策

円高

50~70年代にかけて日本と西ドイツの対アメリカ輸出額は増大し、アメリカの国際収支は悪化した。ニクソン大統領は「ドル危機」を防ぎ、ドルの信用を維持するため、1971年に金とドルの交換を停止し、日本などに為替の切上げを求めた。

1971年の一年間で1ドルは360円から308円まで下落し、1973年に変動相場制に移行してから200円、100円台へ落ちた。

中東戦争

1967年、イスラエルはエジプトやシリアなどの基地を奇襲攻撃し、第三次中東戦争が起きた。第三次中東戦争は6日間で終わったが、これをきっかけに第四次中東戦争と石油危機が起きる。

1973年、エジプトとシリアは、第三次中東戦争で奪われた土地の奪還を目的としてイスラエルに宣戦布告し、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)はイスラエル寄りの国(アメリカ、ヨーロッパ、日本を含む)への石油輸出を制限した。

第四次中東戦争が始まってすぐに原油価格は高騰し、世界経済は混乱した。これを第一次石油危機という。石油危機によってインフレが起き、経済成長は鈍化し、経常収支の悪化した。第一次石油危機によって日本の高度経済成長は終わった。

しかし日本は工業製品の輸出を軸に、石油危機後も年3~5%の成長を続け、世界のGDPに占める日本の割合は増加した。日本の主な輸出先はアメリカであり、日本の貿易収支の改善の裏でアメリカの貿易収支は悪化していた。

出来事
1967 第三次中東戦争
1973 第四次中東戦争
第一次石油危機
1985 プラザ合意
1990 総量規制

1985年、プラザ合意によってドル円の補正が行われると、円高によって日本の輸出産業は著しい不況に陥った。しかし低金利政策による資金は株式や不動産に集まっていた。土地価格の高騰を受けて、1990年に総量規制が始まると、信用収縮が進むと同時に景気が冷えこんだ。以降、2010年代の現在にいたるまで低成長と不況が続いている。

汚職

出来事
1948 昭和電工事件
1976 ロッキード事件
1989 リクルート事件
1992 佐川急便事件
1993 ゼネコン汚職事件

環境問題

第二次世界大戦後の経済発展の裏で、地球温暖化などの環境問題が世界的に進行した。

1960年代、日本は鉄鋼や化学などの産業を中心に発展したが、一方で水俣病などの公害病を生んだ。

四大公害病

・水俣病(熊本県水俣市)
・新潟水俣病(新潟県阿賀野川流域)
・四日市ぜんそく(三重県四日市市)
・イタイイタイ病(富山県神通川流域)

工場の廃液に含まれる水銀が魚に入り、その魚を食べた人の神経がおかされるという水俣病は、公害病に大きな関心が集まったきっかけになった。水俣病などの公害病の反省から1970年に環境庁が発足する。

一方、工場や自動車が排出する二酸化炭素によって地球温暖化が進み、異常気象などが頻発するようになった。1997年、京都議定書が採択され、二酸化炭素の削減目標が定められた。

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