運動会の組み体操「ピラミッド」に何の意味があるのか?|大阪府八尾市のピラミッド問題に思うこと

昨年、大阪府八尾市のある市立中の運動会で10段ピラミッドが崩れるという事件があってから、組み体操とピラミッドに関する話題が広がっています。

私も小学生の時に組み体操をやって、5段ピラミッドを作った記憶があります。今思うと何のためにやっていたかまったくわかりません。

10段ピラミッドの安全性は確かめたのか?

大阪府八尾市の中学校では10段のピラミッドを作ったそうですが、先生たちは一回でも自分たちで10段ピラミッドを作って、その安全性を確かめたのでしょうか? そこまでの情報は確認できませんが、おそらくやってないでしょう。テレビでもない限り、大人が50人近く集まってピラミッドを作る機会はほとんどないでしょう。

そもそも、もし大人たちが10段ピラミッドを作って安全性を確かめたとしても、その安全性が子どもの10段ピラミッドに通用するかは別問題。医者を含めた専門家たちが「10段ピラミッドを作っても全然問題ないよ」と教育委員会と学校にGOサインを出したわけでもなく、ただ運動会に花を咲かせたいという理由で無理なピラミッドを子どもに要求したとすれば恐ろしい話です。

高いピラミッドを作って何になるのか?

一体感を得るために高いピラミッドを作りたいという先生たちの気持ちと意図は理解できる。みんなで協力しようという意気ごみとか、協力して得られる満足感とか、そういったものはあります。

しかし一体感を得るためだけだったら、3段で十分ですね。3段ピラミッドは6人で作りますが、誰か一人でも協力しない人がいれば3段ピラミッドも作れません。作れるかもしれませんが、ものすごくやる気のない人が混じっていると3段でもドバドバと崩れてしまいます。

高いピラミッドを作る意味は何でしょう? 生徒たちが一体感を得るためというよりは、運動会という儀式から得られる先生たちの達成感と自己満足のためではないでしょうか? 主人公はあくまで生徒でも、目的が先生基準になっている気がします。

ピラミッドというものに日本の残念な性質が隠れている

ピラミッドは全員が団結する美しいものかもしれない。ただし、ピラミッドが運動会の花型であるという点に私は納得できない。

まず、個性重視の教育と言っておきながら個性無視のピラミッドを花型にする理屈がわからない。個性を重視したいなら、もっと個人が個人として注目される競技に変えてもいいはず。

徒競走ばかりだと足が速い人ばかりが目立ってつまらないので、高校生クイズのような運要素が混じるものを入れるのはどうですか? 奥に何が待っているかわからない紙に突進するとか。一番は何もなく無事に済むが、二番の紙を突き破ったら浅い落とし穴にはまってしまうとか。もちろん怪我しないようにちゃんと企画しないといけませんが。

学校の運動会の企画力がなさすぎると思うのは私だけでしょうか。

そしてピラミッドにどことなく不気味さを感じるのは、ピラミッドに日本の「出る杭は打たれる」社会性が反映されているような、そうでないような印象があるからです。

もちろん人によっては違うでしょう。私だけがそう思うかもしれない。

3段、百歩譲って4段のピラミッドで十分なところを、5段も6段も作ろうとするところ、それを強要させるところに、日本の協調性を強いる文化を感じます。もちろん協調性は必要です。日本以外のどこに行こうが協調性は必要です。必要ですが、「そこまでする協調する必要ある?」というところが多いのも事実です。学校が子どもに10段のピラミッドを強要するところに、日本の「和」の暴走を見出してしまいます。