キリスト教はイエス・キリストが広めた宗教で、旧約聖書と新約聖書を聖書とする。旧約聖書はユダヤ教の聖書でもある。
旧約聖書 … 神とイスラエル人の契約
新約聖書 … イエスをキリストとする新しい契約
イエスはベツレヘムに生まれ、30歳ころにヨルダン川の近くでヨハネから洗礼を受けた。
新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書などから構成される。新共同訳聖書には次の書物が収められている(以下順番どおり)。
イエスがいた当時、ユダヤ教のパリサイ派が大きな力を持っていた。イエスはパリサイ派の形式的な律法主義を批判(『ルカによる福音書 - 律法と神の国』)しながら、福音や隣人愛について説き、最後はローマ帝国の法によって処刑された。
Vicente Juan Masip - The Last Supper
イエスは神への愛と隣人愛について説いた。隣人愛は「自分を愛するように隣人(他人)を愛しなさい」という教えである。
『ルカによる福音書』などでイエスがパリサイ派の律法主義を批判している場面がある。
金に執着するファリサイ派(パリサイ派)の人々が…イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。…律法と預言者は、ヨハネの時までである…(『ルカによる福音書(新共同訳)』)
しかしイエスは律法を否定したわけではなかった。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。(『マタイによる福音書(新共同訳)』)
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(『マルコによる福音書(新共同訳)』)
イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイによる福音書)」と述べて、隣人愛について説いた。
神は人を平等に愛している。神の愛(「アガペー」という)は無差別であり、だからこそ人は平等である。
イエスの活動はさまざまな困難をともない、多くの反発を招いた。イエスと一緒にいたイスカリオテのユダはイエスに選ばれた十二人の使徒の一人だったが、イエスを裏切って祭司にイエスを引きわたした。ユダの裏切りによって、イエスはゴルゴダの丘で十字架にはりつけられて死んだとされる。
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男(イエスのこと)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(『マタイによる福音書(新共同訳)』)
ユダは裏切ったことを後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちに返そうとしたが拒否され、首をつって死んだ。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(『マタイによる福音書(新共同訳)』)
祭司長たちは銀貨三十枚で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にした。この畑は「血の畑」と言われることになった。
イエスの死後、イエスは復活したという信仰が生まれた。イエスは救世主(キリスト)であり、最後の審判を行うといった考えが「原始キリスト教」として受けつがれていった。原始キリスト教はエルサレムを中心に形成されていった。
キリスト教はパウロとアウグスティヌスによってダイナミックに広がる。パウロはもともとイエスを迫害する立場をとっていたが、復活したイエスの声を聞いてからキリスト教を信仰する(回心)ようになる。
イエスが律法主義を批判したように、律法よりも信仰が義になるという信仰義認説を唱えた。
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもイエス・キリストを信じました。(『ガラテヤの信徒への手紙(新共同訳)』)
パウロによれば、人は原罪をおっている。原罪とはアダムとイブが神の命令に反してから、すべての人が最初からもっている罪である。イエス・キリストはこの原罪をあがなう(贖罪)ために十字架にはりつけられた、とパウロは説いた。
パウロは信仰、希望、愛の三つを徳としたが、中でも愛を重視した。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。…(略)…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(『コリントの信徒への手紙(新共同訳)』)
アウグスティヌスはキリスト教最大の教父とみなされており、『神の国』や『三位一体論』を著してその後のキリスト教思想に大きな影響を与えた。高校の倫理ではアウグスティヌスの三位一体論がとりわけポイントになる。これは神、イエス、精霊が同一であるという理論である。
アウグスティヌスはパウロの三元徳をプラトンの四元徳の上においた。アウグスティヌスによってキリスト教はローマ帝国の国教となった。
トマス・アクィナスは神学者であり、アリストテレス哲学を使ってキリスト教を研究した。信仰と理性を区別し、理性の上に信仰をおいた。
アウグスティヌスの母の名前
アウグスティヌスの母はモニカという名前の女性で、キリスト教教会から聖人として最大の敬意を受けています。アメリカのサンタモニカという土地はこのモニカを由来としています。
新共同訳「新約聖書・マタイによる福音書」から山上の説教を引用し、考察します。当記事は新約聖書を独自に解釈したもので、教会の正当な教説ではありません。マタイによる福音書はビジネスでもしばしば引用される重要な文献です。
イエスは群衆に向かって次のように説きました。
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
新共同訳「新約聖書(マタイによる福音書)」
新約聖書で最も重要な説教の一つである「山上の説教」は、日本語訳からもその詩的なリズムに偉大さを感じられます。
心の貧しい人々という、一見すると善から離れた人たちから始まり、最後はすべての人たちの義のために犠牲になる人々で終わります。
これは、イエスの言葉を聞くために集まった人たちが、まだイエスを信じていないことを暗示しています。心の貧しい人とは第一に信仰心の足りない人です。イエスを完全に信じることができない人も、イエスが示す天の国に入ることができると説くことで、万人が天に迎えられる可能性があると示しています。
山上の説教が資本主義的な観点から再解釈されるとすれば、柔和な人々が地を受け継ぐという文が目を引きます。
一方で「母は生み、子は滅ぼす」というイディオムがあります。これは成功者の二代目は初代の資産と栄光を食いつぶすという意味です。二代目が一代目の資産を継いでさらに発展させるためには、マタイによる福音書のいう柔和な人々に属する必要があるといえます。
ジョン・ロックフェラーが熱心なキリスト教信者だったことはよく知られています。ロックフェラー家はその後も二代目、三代目と栄光を受け継ぎ、アメリカの経済と政治を支えました。まさに地を受け継いだわけですが、ロックフェラー家の人々は(真相がどうであれ)柔和でした。
石油で財をなしたジョン・ロックフェラー(初代)は、自分に激高する気質があることを理解しながら、柔和にふるまうことを努めていました。最低限の礼節と謙虚さを持っていたのです。
そのロックフェラーが築いてきた財のほとんどを医療と教育に寄付したことは、次の世代を担う憐れみ深い人々に憐れみをかけた、恩返しの行為といえるでしょう。