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20105

実存主義のわかりやすい解説(キルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、サルトル)|高校倫理

本当の自分をとりもどすという考えや姿勢を実存主義といいます。キリスト教や社会的自由にふりまわされて自分を見失った状態から、「自分という存在」を考える思想です。

実存主義はキルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、サルトルの五人が有名で、センター試験によく出てきます。

キルケゴールとニーチェは対で覚えよう。

実存主義

五人の思想をざっくりまとめるとこうなる

  • キルケゴールは、キリスト教の神に向き合うことで、本当の自分にたどり着くと考えた。
  • ニーチェはキリスト教を「弱者の怨恨」にすぎないと考えて、力を求めることが重要だと説いた。
  • ヤスパースは、死や病気といった限界状況にある時、人間は神のような超越者に会い、本当の自分がわかると考えた。
  • ハイデガーは、死から人間の存在を考えた。
  • サルトルは、実存(存在そのもの)は本質(生きている理由など)よりも前にあると考えた。

キルケゴールとニーチェはどちらもキリスト教をもとに考えているのでわかりやすい。キルケゴールはキリスト教の神に会うことが、自分探しの極地だと考えた。ニーチェは逆にそうした発想を否定して、力を求めて情熱的に生きていく重要性を説きました。

ヤスパースのキーワードは限界状況。「限界状況」という言葉が出てきたらヤスパースと考えていいかもしれない。限界状況とは死や病気のことです。本当に八方ふさがりになった時、人間は初めて自分の限界を超えたところにある「超越者」を知り、本当の自分を理解する。

ハイデガーはなかなか一言で説明できない思想家ですが、ヤスパースと同じように死を念頭に置いています。人間はいつか死んでしまう。そこから出発すると今存在していることがどういうことか、わかってくる。

サルトルは「実存が本質に先立つ」という言葉で有名な思想家。自分という生きている存在は最初からある。どうして存在しているか、どんな目的でここにいるのか、といったことは関係ない。とりあえずここに存在している、というわけです。

キルケゴールとニーチェ

キルケゴールは自分探しに熱心だった思想家といえます。自分は三つの段階を経る。ざっくり言うとこんな感じ。

  • 快楽におぼれる
  • 道徳を身につける
  • 神に会う

まず楽しいことばかり求める。そうすると次第に自分を失って、道徳や倫理を身につけるようになる。しかし道徳ではどうにもできない時がある。そうしてようやくキリスト教の神に会う。自分一人(キルケゴールは「単独者」と呼ぶ)が神に会う時、その人は初めて本当の自分を見つけたことになる。

ニーチェはキルケゴールと違い、キリスト教は弱者の論理だと考えました。気力も生きがいもない弱者が、強者に恨み(ルサンチマン)を抱いて神にすがる。自分の本質はもはやない(ニヒリズム)。キリスト教に救いを求めるよりも、力を求めて生きるべきだ。とニーチェは説きました。

ニーチェ

ヤスパースとハイデガー

この二人はキルケゴールとニーチェほどわかりやすくありません。ただしどちらも「死」を意識した思想家です。ヤスパースは一般的にキルケゴールとニーチェから影響を受けていると言われます[1]。

ヤスパースは、自分でどうにもできないつらい状況(「限界状況」)にいる時、人はこの世を超越しているような存在(超越者)を知る。それは自分の有限性の裏返しでもあります。超越者に会って、人はようやく本当の自分を知る。

ハイデガーはもっとわかりにくい。ハイデガーのキーワードは「現存在」「世界内存在」で、これが非常に難解です。

ざっくり言うと「私は今ここにいるよな」という意識が「現存在」です。物体は「俺ってそういえば鉛筆だよな」と思わないですね。人間だけが「私(俺)ってそういえば人間だった」と理解できます。この意識を持つ存在が「現存在」です。

「俺って山田太郎という人間だよな」という意識を広げると、「俺は◯◯の子どもで、◯◯と友だちで、◯◯という学校を出てて」という関係も見えてきますね。世界にぽつんと一人いるわけじゃない。自分は誰かとつながっているし、自分は世界の中にいる。こうした感覚を「世界内存在」といいます。ハイデガーは「現存在」と「世界内存在」を難しく考えた思想家といえます。

サルトル

サルトルは戦後の思想家です。「実存は本質に先立つ」という言葉を残しました。

「今ここにいる自分」を考えると、実はあまり深い意味はない。なにか明確な目的があって生まれたわけじゃない。工場で生産される鉛筆は「人間の書く道具」として、明確な目的とともに生まれて、文房具屋に存在するわけですが、人間は違う。

人間はすでに存在している。具体的な目的があるわけでもないし、こうしないといけないという定めもない。人間は自由なのです。自由だからこそ、本質を自分で決めていく。それが生きていくということでもある。

この意味でサルトルは人間の自由を評価しているように見えますね。しかし「自由の刑」という言葉も残しています。人間は自由すぎるから、自分の人生を自分で決めていくという重いプレッシャーとともに生きないといけない。

ちなみにサルトルの妻ボーヴォワールも有名な思想家で、男女平等などを主張しました。

参考

実存主義(高校倫理)の一問一答集
フランクフルト学派

文献

[1]高等学校新倫理、平成29年、清水書院、120
画像引用:ウィキメディア・コモンズ、パブリック・ドメイン

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