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ハンナ・アーレントの思想(「全体主義の起源」と「人間の条件」を理解する)

ハンナ・アーレントはドイツで生まれ、アメリカで言論活動を行ったユダヤ人の女性思想家です。第二次世界大戦を経験し、「全体主義の起源」などを著しました。この記事では清水書院「人と思想」シリーズの「ハンナ・アーレント」(以下「人と思想」と記す)を参考に、全体主義や労働について考察します。

概要

ハンナ・アーレントは世界史と倫理の教科書で出てくるユダヤ人の思想家です。彼女はドイツで生まれ、第二次世界大戦中にドイツを脱出し、最終的にアメリカで生きました。亡命ユダヤ人として第二次世界大戦の苦しみを経験し、そこから二十世紀の歴史を分析したのです。

1951年に発表した「全体主義の起源」は彼女の代表作であり、第一次世界大戦前からあった人種差別がどのように第二次世界大戦につながったかを紐解く名著です。

1958年、もう一つの代表的著作「人間の条件」が発表されました。高校で取り上げられることは少ないと思いますが、この本はハンナ・アーレントを考えるうえで必須になるでしょう。

彼女は若いときにハイデガーやヤスパースといった哲学者と交流し、早いうちに自分の足場となる思想を固めました。

ヤスパース
ヤスパース

思想が成熟していくと同時に社会は戦争状態になり、現在の私たちでは考えられないほどの苦痛を味わいました。しかし彼女は冷静に歴史と社会の変容を分析し、さらに戦後アメリカ社会と国際社会について鋭い先見の明を持っていました。

「全体主義の起源」の背景その1

ハンナ・アーレントはカントが生きたケーニヒスベルクで若いときを過ごしました。第一次世界大戦が始まる前までは生活に困るようなことはなかったものの、第一次世界大戦末期から家計が苦しくなっていきます(「人と思想」p18参照)。

彼女が若い頃から聡明であったことはよく知られています。そしてマールブルク大学でハイデガーに会い、実際に交流しました。この経験は多かれ少なかれ彼女とその思想に影響を与えました。

その後、ハンナはヤスパースの講義に参加し、彼と思想的に交流しました。ヤスパースはニーチェやフッサールから影響を受けた哲学者で、高校では実存主義の側面から分析されます。彼女はヤスパースを次のように高く評価しています。

比類のない対話能力、話を聞く際の素晴らしい正確さ、自分自身を率直に表明するための不断の準備、討議中の問題に固執する忍耐力。

(「人と思想」p27より引用)

このときはまだ「全体主義の起源」に直接結びつく決定的な自我は確立されていません。しかし彼女は着実に、戦後の自分にとって必要な教養を身につけていました。その一つがギリシア語とラテン語の広範囲な教養です。ハンナは「人間の条件」などの著作を通じて現代社会の問題点を提起していますが、その思想の根本には古代ギリシアとローマの時代の知識があったのです。

「全体主義の起源」の背景その2

ナチスの台頭で彼女の人生は変わりました。1933年2月、国会議事堂放火事件をきっかけにナチスが共産党を締め出すと、ドイツに反ユダヤ主義が現れました。国民は第一次世界大戦の重い賠償金と世界恐慌で極限まで疲れきっており、ナチスはそれにつけこむ形でこの排外主義を拡散したのです。

1933年7月、ユダヤ人だったハンナは逮捕されました。しかし運良く出獄でき、そのままドイツから逃れてフランスのパリに向かいます。彼女はここから亡命生活に入りました。その亡命期間は結局二十年近くになりました。ハンナ・アーレントという人物が第二次世界大戦を中心に社会を分析したのもこの経験があるためです。

亡命したフランスでハンナは、同じくドイツから逃れたハインリヒ・ブリュッヒャーと結婚しました(1940年1月)。しかし5月になると、ドイツ出身者であるハンナは抑留キャンプに連行され、収容されました。さらに同じ年の6月、ナチスはフランスのパリを占領します。1940年という年はハンナ・アーレントにとって最悪の年でした。

ドイツのパリ占領

ナチスがパリを占領したとき、抑留キャンプもふくめてパリは一時的に混乱しました。このわずかな混乱でハンナは抑留キャンプを脱出することに成功します。その後も多くの困難をともないつつも、努力と幸運によって、1941年にフランスから亡命し、さらにアメリカに入国することになりました。

1943年、ハンナはアウシュビッツ強制収容所の事実を聞いて衝撃を受けます。これはユダヤ人であるハンナにとって最悪の知らせでした。

年表

出来事
1933/7 ハンナ、逮捕される
1939/9 第二次世界大戦が始まる
1940/1 ブリュッヒャーと結婚
1940/5 フランスで収容所に連行される
1940/6 ナチスがパリを占領、収容所を脱出
1941 アメリカへ

全体主義の起源

「人と思想」p70より「全体主義の起源」が丁寧に説明されています。この本は「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」の三つで構成されています。「人と思想」と同じように、この記事でもこの三つを独自に考察します。

反ユダヤ主義

反ユダヤ主義は古くからありました。しかしドレフェス事件は現代において決定的に重要でした。世界史でも学ぶことですが、ドレフェス事件はフランスのユダヤ人将校が逮捕され、終身刑となったが、実際は無実だった可能性があるというものです。

ドレフェス事件
ドレフェス事件(ウィキメディアコモンズより)

ドレフェスはドイツのスパイ容疑で逮捕されましたが、その証拠はほとんどありませんでした。しかし社会の世論は二つにわれ、問題の中心が「ドレフェスがユダヤ人である」という点に移っていきました。

当時、フランスの政治は腐敗し、政治家と官僚は経済界とつながって賄賂が蔓延していました。さらに多くの階層で経済的に転落する人が後を絶たず、人々の不満は爆発寸前でした。ハンナ・アーレントはこの転落した人々「階級脱落者」が排外主義を生む「モッブ」になったと考えました。

政治に携わる知識層も暴力的な群衆(モッブ)も感覚が麻痺して、第二次世界大戦につながる排外主義を推進していたのです。

帝国主義

ハンナ・アーレントはイギリスとドイツの帝国主義を分けています。イギリスとフランスはヨーロッパ以外の各地に植民地を持ち、特にイギリスはその植民地を利用して経済的に成功しました。

大航海時代まで遡る植民地獲得競争はやがてドイツを除け者にしました。ドイツはイギリス、フランス、オランダと違ってヨーロッパの外に植民地を持たなかったので、ヨーロッパを支配下に置くことを目標と定めたのです。これは汎ゲルマン主義となり、ゲルマン人はヨーロッパを支配してもいいという思想になります。

そのうえで第一次世界大戦がありました。第一次世界大戦そのものは非常に複雑で、多角的で、原因を一つに定めることはできません。戦後、ヨーロッパは荒廃してドイツは理不尽な賠償金を払うことになり、ハイパーインフレによって人々の生活は破綻します。

1929年に世界恐慌が起きると状況はさらに悪化し、賠償金の支払いは不可能になり、国民は生きていくことが困難になりました。失業と貧困は暴力的な思想と運動を作ります。

一方、第一次世界大戦は多くの難民を生み、無国籍の人々がヨーロッパをさまよっていました。貧困と無国籍が極限まで達しているにもかかわらず、解決の可能性はほとんどありませんでした。

全体主義

ハンナ・アーレントは大衆社会が全体主義を生むと考えました。大衆とは

共同の世界が完全に瓦解して相互にばらばらになった個人から成る大衆

(「人と思想」p110より引用)

です。次に引用する文章は非常に重要です。

現代の大衆社会に特有な個人化とアトム化が全体主義的な支配の成立にとっていかに必要不可欠かを明らかにするには、ナチズムとボルシェヴィズムを比較するのが最上の方法だろう。この二つは歴史的にも社会的にもこれ以上の相違は考えられないほど異なった条件のもとで成立していながら、結局はその支配形式ならびに諸制度はともに驚くべき類似性を示すに至っている。

(「人と思想」p110より引用)

ナチスと共産党は水と油のように最も離れた距離にありましたが、そのやり方はとても似ていました。排外主義的で、暴力的で、大衆を扇動する。この二つを支えているものは大衆であり、狂気と悪を冷静に判断できない個人の集まりです。

悪に先導される個人の多くは共同体を失っていました。共同体とは家族であり、地域であり、国です。第一次世界大戦後、ヨーロッパには多くの無国籍者があふれ、家族を失った者がたくさんいました。共同体はそれまで(宗教などを通じて)一定の教育を与え、「感覚麻痺」しないための価値観も与えていましたが、それらはもうありません。

加えて私たちは常に誰かから必要とされている状態を欲します。当時のドイツとソ連はその心理を利用するように、一人ひとりの個人に「あなたが必要だ」と訴えるのです。行き場を失い必要とされていないと感じる人々は、その言葉に酔ってしまう。

扇動された個人たちに何が足りなかったか? おそらくそれは共同体であり、横のコミュニケーションでした。ばらばらになったことで、一人ひとりは上からやってくる言葉を、それが悪であるか判断もしないで受けとめたのです。

人間の条件

「人間の条件」はハンナ・アーレントのもう一つの代表的であり、とりわけ「労働」について考えています。この労働は消費と表裏の関係にあり、現代社会は消費社会とみなされています。

ハンナは人の行うことを「労働」「仕事」「活動」の三つに分けて、とりわけ「活動」を重視しました。活動は政治的であり、社会を良くするものであり、ギリシア的な(言葉による)説得によってなされるものです。しかし消費が拡大していく現代では労働優位になり、活動が軽視されます。

活動がないがしろになることと、世界が政治的なものから社会的なものになることは表裏一体です。ここでハンナは「政治的」と「社会的」を厳密に区別しました。「人と思想」p156によれば、彼女はギリシア語からラテン語になる過程で多くの概念が混同され、失われたという(「人と思想」ではトマス・アクィナスを例にとっている)。

その失われて歪められた概念に「政治的」と「社会的」がありました。政治的な世界とは「活動」がきちんと行われている世界で、古代ギリシアが体現していた世界です。しかし労働の重要性が増すと、人々が政治に無関心になり、世界は「労働」と消費に関してだけ行動する社会的な世界になります。

政治的世界(古代ギリシア)
 ↓
社会的世界(現代社会)

労働と消費が優位の世界では、人々の目的は金銭です。そうすると世界は画一的になり、人々は政治的には没個性的になり、私的領域が広がっていく。この世界は古代のように一人が複数人を支配するような形ではなく、一種の「無人支配」が行われている。

彼女は次のユニークな言葉を残しています。

無人支配は必ずしも無支配ではない。実際、それはある環境のもとでは、最も無慈悲で、最も暴君的な支配の一つとなる場合さえある。

(「人と思想」p169より引用。本文は「人間の条件」p63より)

「人間の条件」はハンナ・アーレント独自の切りこみが多いものの、「全体主義の起源」に通じる考えを感じとれます。

それは、ばらばらになった個人が有意義で建設的な言論を放棄しているということです。個人が消費社会に占有され、言葉の説得で世界をよくしようという気力を持たないことが、大衆社会の特徴の一つです。「人と思想」の「人間の条件」で形を変えてくりかえし示唆されているように、大量消費社会・大衆社会は個人を画一的な社会に放りこんで、個人は平等という力に抑圧されています。そして大衆社会での個人は

  • 消費における区別でアイデンティティを身につける
  • 政治的な活動を排除する

という傾向をとるにいたります。

その他の文献

ハンナ・アーレントは「イェルサレムのアイヒマン」という本も書いています。これは多くの論争を起こして有名になりました。ここでは「人と思想」からの引用をのせるにとどめます。

愚かではなかった。完全な無思想性ーこれは愚かさとは決して同じではないー、それが彼のあの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。

(イェルサレムのアイヒマンp221より引用。「人と思想」ではp177にあたる)

知性がないわけではない。しかし思想を持たない。これが最も最悪の個人になりうることを暗に述べています。

参考文献

太田哲男「ハンナ・アーレント」(清水書院「人と思想」シリーズ・2001年)

ハンナ・アーレント「全体主義の起源」(1951年)
第一部の和訳は大久保和郎訳(みすず書房・1972年)
第二部の和訳は大島通義・大島かおり訳(みすず書房・1972年)
第三部の和訳は大久保和郎・大島かおり訳(みすず書房・1974年)

ハンナ・アーレント「イェルサレムのアイヒマン」(1963年)
和訳は大久保和郎訳(みすず書房・1969年)

ハンナ・アーレント「人間の条件」(1958年)
和訳は清水速雄訳(中央公論社・1973年)

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