人は村をつくり、やがて都会をつくり、最後にインターネットをつくりました。
私は岩手という閉鎖的な地域で生まれました。時間の経過が遅いのどかな地域は、人と人の関係がとても密で、人は共同体の一部です。
昔の人はほとんどが村にいて、伝統としがらみの中で暮らしていました。村の風習は個人の考えよりも優先されるため、問題が起きると、村人は祈祷したり誰かを犠牲にしたりしました。
オランダやイギリスなどで商業が発達すると、ヨーロッパに世界的な都市(アムステルダム、ロンドン)が生まれ、人は村を出て都市に行きました。村よりも都市のほうが自由で、経済的に豊かになるからです。
都市は人の関係が希薄で、個人は村の非合理的な風習にとらわれず、権利を自由に主張するようになりました。こうして人は非合理的な村人から合理的な市民に変わったのです。
しかし市民はその国や土地に流れる歴史や文化の中で生活している。市民は国という枠組みの中で合理的にふるまう。だから一部のロシア国民はプーチンの権力に従うテレビ局と出版社によって、ウクライナへの侵略を合理的に正当化する。
20 世紀までの市民がもっていた合理的な判断力はときに、インターネットというグローバルにおいて非合理的なものになります。
村の合理性 … 都市では非合理的
都市の合理性 … インターネットでは非合理的
私たちは「自分は合理的だ」と思って行動しますが、その合理性は自分の環境のうえにある。それを忘れると今回の侵略戦争でプーチンを支持する一部のロシア人と同じ宿命をたどってしまう。すべてのロシア人がグローバルなインターネットに参加していれば、プーチンはいなかったかもしれない。
村、都市、インターネットという空間の進化は私たちの合理的を拡張してきました。日本は非合理的な合理性の多い後進国で、多くの人は祈祷していた村人と同じように、広くなった世界での合理性を身につけていません。
多くの日本人が都市でなくグローバルの視点をもてば、ハンコや FAX や無意味な敬語はすべて非合理的で愚かな風習になります。一人ひとりの合理化が進まないかぎり、国の合理化も進まない。
歴史はつまるところ「合理化した地域が合理化しない地域を滅ぼす」のくりかえし。合理性するアメリカとヨーロッパが非合理的な日本をつぶすのは時間の問題です。それを回避するには、一人ひとりができることをするしかない。英語のニュースを見て、英語で英語圏にいる人とコミュニケーションをとって、海外に出かけて他国の文化を学ぶしかない。