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宇宙は文の組みあわせ:時間は離散的で、物理的な運動は論理の評価にすぎないかも

一ヶ月前、ある数学者がコンピューターの技術を使って相対性理論と量子力学の統一を試みている話を知った。彼は代数学的なモデルを使って空間の次元が 3 になることを証明し、時間の究極的な概念を説明した。ひょっとしたら科学が大きく進歩するかもしれない。

私は数学科を卒業してほとんど物理や応用数学に触れていない。だから最先端の原子物理学は知らない。しかし「小さい物質はこんなふうに運動しているだろう」という不思議な確信がいくつかある。

  • 宇宙は論理の体系である
  • 時間は離散的である
  • 運動は式の処理と評価である

宇宙は概念にすぎない

物理系の人は呆れるかもしれないが、宇宙は抽象的な論理の体系にすぎないと私はずっと考えていた。今あなたはこの電子的な文字を見て、なにかを考えている。これは一種の伝達だが実体はない。

あなたはたぶんコンピューターかスマートフォンを触っているが、それらは物体で実体がある。古典的な物理はそうした物質の運動を記述するが、抽象的な伝達をまともにモデリングすることはない。物理は社会科学の範囲外にあるという常識的な限界はおそらくコンピューターサイエンスによって破壊される。

21 世紀の物理と数学はコンピューターをもとに研究される。そして多くの学者は宇宙そのものがデータやオブジェクト、記号論理学的な文だと気づくかもしれない。

原始的な論理 a->b & b->c = a->c は一種の運動といえる。論理がいくらでもつながれるように、運動も終わりがない。論理の展開はステップごとにわけられる。Python の正しいコードを 100 万行書いたとして、コンピューターはそれを一瞬で処理することはない。処理は順番に行われるため、間に処理中という「運動」が起きる。

コンピューターとプログラミングに浸かっていると、宇宙が壮大なプログラミングコードや論理のかたまりに思えてしかたない。宇宙の外にいる人はこの宇宙が概念にすぎないことを知っているが、私たちは内部に閉じこめられた概念の一部であるため、物質を実体と感じてしまう。

時間は離散的である

私は高校生のときから「時間は離散的」だと信じていた。

コンピューターは(マルチプロセッシングとマルチスレッドを除いて)基本的にクロック周波数を超える処理はしない。多くの人は平常時 1 分間に 70 回程度の鼓動で心臓から全身に血液を送り、細胞はそのスピードに支配される形で酸素をもらい、エネルギーを生んで分裂する。

宇宙もコンピューターや人体と同じように、有限ヘルツのポンプがあるかも。宇宙が形式的な言語だとすれば、一つの論理的な展開が時間の最小単位(T)になる。

「見る」という行為も論理にすぎないが、その実行時間(A)は最小単位の整数倍である。

A = nT

主体と客体の距離を l とすれば

l/A = l/nT = l/n × 1/T

が光速度になる。l/n は距離の次元をもっているが、データをランダムにサンプリングすれば距離に依存しない定数に近づくため、k/T (k: 定数)が光速度になる。これが特殊相対論の光速度一定の根拠になる。

中間データの生成が運動である

「宇宙はどこから生まれたのか?」というテーマに多くの物理学者はひきつけられる。宇宙が

if a > 0:
  b = f(a)

といった式の途方もない組みあわせだとすれば、その処理が運動である。上のコードでは if の評価、b への参照渡しが運動である。if の評価(真偽)はただの中間データであり、プログラムのゴールでない。宇宙の運動とは、文章を処理・評価し中間データをつくること。f が 3 つの隠れたメソッドを使っていたら、この運動は 3T の時間を要する。

重力は文や論理の流れにすぎない。文には方向があり、処理の実行はそれに従う。物質が重力によって動くのは、処理が処理系にあるだけの話…。

物質と空間

物質は閉じた循環論理のようだ。ソフトウェアやプログラミング言語の設計者はモジュールや関数の循環を避けるために努力するが、宇宙にとって物質は循環した体系で、それ自体で変化することはない。コンピューターの循環したモジュールで考えるとわかりやすいが、この愚かなモジュール群は内部でまっとうに機能するが、スタートとゴールが一致しているために外部と基本的に切断されている。

ところが外部のモジュールに循環的モジュールの関数が入っていると、プログラム全体は循環するモジュールたちを根こそぎ排除できない。頭のいいコンパイラーはその前にエラーを吐きだす。

物質とは、外部の関数が混ざった循環的なモジュール群である。論理の始まりと終わりが一致する鎖をもった不幸な式である。そして不純物が物質の質量に似た概念になる。なぜなら「本来入ってはいけない論理」だけが、閉じた循環と外部を結びつける引力になるから。

おそらく宇宙のはじまりは「なにもない」という抽象的概念だった。これを仮に 0 としよう。そして 0 is 0 と is 0 0? の 2 つの文が生まれた。

0
0 is 0
is 0 0?
0 is that 0 is 0
is 0 0 is 0?

こうした文の組みあわせが今の宇宙を作ってしまった。これを読んで「はあ?なに言ってんだこいつ」と思ったかもしれない。そういう人は日本の地下鉄マップを見てほしい。駅は「駅」というデータと「上り」「下り」「のりかえ」というメソッド(関数、動詞)をもち、その組みあわせであれだけの地図ができる。

0 から 0 is 0 という文が生まれたところに空間の本質がある。0 はなにかであり、なくてもかまわない。文(判定、参照)は存在のありなしにかかわらず「記述できる」。宇宙があるのは、まさに「記述できるから」あるのだ。哲学的な人はたぶんこの記事の結論がもうわかっていると思う。宇宙はデータでなく文の記述でなりたっているからこそ、私たちも物質も本当は「からっぽ」であるという結論だ。

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