学校と予備校の先生は口にしないが、世界史を選択した文系の受験生はたぶん損する。私は理系出身だから、これ以上の話に説得力はないし、この記事もたぶん読む価値がない。
ただ、競争は有利と不利があって、その差を理解して実行する人がほとんどいないことは確かだ。もし世界史の先生が「教養のために世界史を選択しよう」とほざいたら、その人の言葉はもう信じないほうがいい。
世界史は日本史や地理よりも重く、その教養は少なくとも中学受験の地理よりずっと価値がある。それをふまえても、世界史はずいぶん割に合わない。世界史を選んだ文系の受験生はそうでない受験生より苦労し、それは英語の点差に影響する。
世界史の細かい年号を問題にする大学は受験しなくていい。出題者はおそらく
で、たぶん世界史を語る資格がない。世界史の問題は愚かな一問一答でなく、受験生の解釈をたずねるべきだ。
「フランス革命が与えた影響を説明し、あなた自身がどのように影響されたか説明しなさい」
こうした批判的思考を問わない教員は教壇に立つ資格がない。たぶん自己啓発セミナーの講師が合っている。
これを読んでいる大学生は、歴史の授業が終わったら教授か准教授に次の質問をしてみよう。その回答で、その先生のアカデミックなレベルと人間性がわかる。
「先生、世界史はどんなふうに勉強すればいいですか?」
このシンプルな質問にどう答えるか?
…
…
愚かな自称歴史学者と二流教授はたぶんこう答える。
「〇〇という本を読みなさい。それで、たまにノートにまとめるといいよ」
一流の先生はこう答える。
「私の授業を聞いて、反省して、人生を変えなさい」
世界史の勉強は自分を起点にする。現代社会への影響を考えるとか、世界史を再解釈するとか、そんなものはほとんど価値がない。なぜなら、知識は自分の行動で価値を証明するから。世界史を読んで「はいおしまい」の人は山川の分厚い本で筋トレするほうが合っている。そして、歴史を教えている人は、人に歴史を教える前に、自分の歴史を世界史に位置づけるべきだ。それができない人は細かい年号を出題して、日本の教育劣化に貢献している。