室町時代をざっくりわかりやすく解説〜建武の新政から応仁の乱まで

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小学生から中学生、高校生から大人に向けて室町時代をざっくりわかりやすく解説しています。室町時代は次のように進みました。南北朝時代(政府が2つあるような不安定な時代)足利義満が統一…室町時代かんたんクイズ〜室町時代は足利尊氏が京都に入ってから、織田信長が足利義昭を追放するまでの時代です。建武の新政や応仁の乱などの重要な出来事の年号をクイズで覚えましょう。

このページには小学生から中学生に向けた簡単な解説と、高校生から大人に向けた解説の二つがあります。どちらも室町時代をざっくりわかりやすく解説していますが、高校生向けのほうはやや難しい内容になっています。

小学生から中学生に向けた室町時代の解説

室町時代の区分

室町時代は三つの時代にわけられます。

  • 前期 南北朝時代
  • 中期 足利義満から応仁の乱まで
  • 後期 戦国時代

南北朝時代

1333年に鎌倉幕府が滅亡します。その後、後醍醐天皇は1333年に奈良で建武の新政を始め、足利尊氏は1338年に京都で室町幕府を始めます。

ここから南北朝時代が始まります。北と南に都があるので南北朝です。

京都 奈良
足利尊氏 後醍醐天皇
1338年~ 1333年~

2つの幕府があるような混乱した状態が60年ほども続きます。しかし1392年、3代将軍足利義満によって北朝と南朝は統一されました。

足利義満と足利義政

足利家で最もキーになる将軍は3代と8代。

3代の足利義満は南北朝を統一して国を安定させました。8代の足利義政は応仁の乱を招いて国を不安定にさせました。

応仁の乱

足利義政の次の将軍がなかなか決まらなかったため、応仁の乱という大きな戦争が起きてしまいます。日本はここから戦国時代に入ります。

侍

戦国時代

応仁の乱から様々な大名が力を持ち始めます。織田信長もその一人。信長が1573年に足利義昭を追放して、室町幕府は滅亡します。

室町幕府のざっくりした結論

室町時代は次のように進みました。

  • 南北朝時代
  • 足利義満が統一
  • 足利義満から足利義政までのすばらしい時代
  • 応仁の乱
  • 戦国時代

ドラマや映画で戦国時代はよく見るので、戦国時代は解説しなくてもだいじょうぶでしょう。受験では戦国時代よりも室町時代前期から中期までがよく出ます。

高校生から大人に向けた室町時代の解説

続いて高校生から大人に向けた内容になります。内容はざっくりしていますが、上の知識がないと難しく感じるかもしれません。

まず室町時代は後醍醐天皇から始まります。後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、新田義貞が鎌倉時代を倒した後、後醍醐天皇は1334年から建武の新政と呼ばれる新しい政治を始めました。

多くの武士はこれに不満を持ち、足利尊氏は光明天皇を即位させて自分は征夷大将軍となりました。こうして1336年、足利尊氏による室町幕府が始まりました。

南北朝時代(持明院統と大覚寺統の争い)

なぜ後醍醐天皇がいるのに足利尊氏は光明天皇を即位させることができたのでしょうか?

実は天皇家の家督問題が背景にあります。室町幕府ができる前、後嵯峨天皇が亡くなった後、誰が次の天皇になるかで朝廷が二つに分かれました。

後深草天皇を祖とする持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇を祖とする大覚寺統(だいかくじとう)です。後嵯峨天皇の後、持明院統と大覚寺統は交代で天皇につくことになります。

天皇家系図

天皇 系統
88代 後嵯峨天皇 -
89代 後深草天皇 持明院統
90代 亀山天皇 大覚寺統
91代 後宇多天皇 大覚寺統
92代 伏見天皇 持明院統
93代 後伏見天皇 持明院統
94代 後二条天皇 大覚寺統
95代 花園天皇 持明院統
96代 後醍醐天皇 大覚寺統

足利尊氏は大覚寺統の後醍醐天皇でなく、持明院統の一人を光明天皇として立てて、後醍醐天皇を京都から追放しました。後醍醐天皇は吉野(現在は奈良県)に逃れ、自分こそが正統の天皇であると主張しました。以降、京都と奈良で天皇が一人ずついる南北朝時代に入ります。

日本史では常に天皇は一人ということになっていますが、唯一この南北朝時代では京都に一人、奈良に一人いることになります。

足利尊氏が光明天皇側、楠木正成と新田義貞が後醍醐天皇側につく形で南北朝は争い、楠木正成と新田義貞は滅んでしまいました。その後、足利尊氏を祖とする足利家が征夷大将軍として室町幕府を運営していきます。

足利義満による黄金期

南北朝の争いは三代将軍足利義満の時(1392年)に終わり、時代はようやく安定し始めます。足利義満で重要なポイントは①日明貿易と②北山文化です。

足利義満

足利義満は中国(当時は明という国だった)や朝鮮と貿易をしました。明との貿易船である遣明船は勘合という札のようなものを持っていなければならなかったため、日明貿易は勘合貿易とも呼ばれています。当時の貿易は日本を豊かにしましたが、やがてその利益は幕府から地方の守護(鎌倉時代にできた各地を治める者)に移ります。

また足利義満は京都の北山に鹿苑寺金閣という寺を建てるなど北山文化の発展に貢献しました。北山文化は現在の日本文化に深くつながっていることから入試などでよく出ます。

土一揆

六代将軍足利義教の時から室町時代は不安定になっていきます。この頃から貧しい農民や武士が高利貸しなどを襲う土一揆(つちいっき)が頻繁に発生し、やがて1441年に嘉吉の土一揆という数万人規模の土一揆が起きます。

また足利義教が赤松満祐(みつすけ)の殺害されるという嘉吉(かきつ)の変が起きると、幕府の弱体化が目立つようになります。

嘉吉の土一揆と嘉吉の変は小学校では習わない可能性もありますが、その後の歴史に関わる重要な事件です。

1467年 応仁の乱

この二つの後、とどめをさすように八代将軍・足利義政の家督問題が生じます。これは足利義政の弟である足利義視(西軍)と足利義政の子である足利義尚(東軍)の争いで、全国の守護大名が東と西に分かれて激しく争いました。これを応仁の乱といい、1467年から1477年まで続きましたが、その後も全国的な内乱は収まらず、やがて戦国時代に入ります。

応仁の乱では、足利義視(西軍)側に山名持豊(やまなもちとよ)、足利義尚(東軍)側に細川勝元がつきました。

応仁の乱によって京都は荒廃し、下の者が実力によって上の者を倒すという下克上(げこくじょう)が現れました

なお、応仁の乱前後に在位していた足利義政は京都の東山に慈照寺銀閣を作るなど東山文化の発展に貢献しました。

室町時代の農業

鎌倉時代になって二毛作が普及しましたが、室町時代になると三毛作も広まり、さらに下肥(しもごえ)が使われるようになりました。戦争によって土地は荒廃しやすい状況にあったものの、総じて農業生産力は上がっていた。

室町時代の文化をざっくり解説

ここでは小学生から大人まで、すべての世代に向けた室町時代の文化をざっくり解説します。室町時代の文化は南北朝文化、北山文化、東山文化があります。

  • 南北朝文化
  • 北山文化(足利義満)
  • 東山文化(足利義政)

南北朝文化

足利尊氏が光明天皇(北朝)をたてて後醍醐天皇と対立すると、足利家や天皇家についての歴史書と軍記物語が作られるようになりました。

  • 「増鏡」
  • 「太平記」
  • 北畠親房「神皇正統記」

読み方

漢字 読み方
増鏡 ますかがみ
太平記 たいへいき
北畠親房 きたばたけ・ちかふさ
神皇正統記 じんのうしょうとうき

また、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて成長した武士を中心に、「バサラ」という派手な文化も生まれました。

北山文化

3代将軍の足利義満は、京都の北山という場所に金閣を建てました。金閣は寝殿造と禅宗をあわせた建築様式で、禅が文化として浸透したこの時代の文化を代表します。

北山文化は禅を特徴とします。禅の禅問答を絵にしたところから水墨画の文化が生まれましたが、水墨画で有名な雪舟は東山文化に属します。

また観阿弥と世阿弥は猿楽から能という芸術を生みました。

東山文化

8代将軍の足利義政は、京都の東山という場所に銀閣を建てました。銀閣は書院造という建築様式で、禅の簡素さから強く影響されています。足利義政の書斎であった慈照寺・東求堂の同仁斎は、今日でも茶会で見られるような簡素な部屋です。

銀閣寺

銀閣寺(2019年3月筆者撮影)

銀閣や慈照寺東求堂のように、絵画や芸術も禅を深化させている。明(中国)で絵の技術を学んだ雪舟は、禅的な水墨画をさらに発展させました。

室町時代かんたんクイズ

室町時代は足利尊氏が京都に入ってから、織田信長が足利義昭を追放するまでの時代です。建武の新政や応仁の乱などの重要な出来事の年号をクイズで覚えましょう。

鎌倉幕府の滅亡は何年?

  • 1332年
  • 1333年
  • 1334年
  • 1335年

1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。

応仁の乱は何年に始まった?

  • 1463年
  • 1467年
  • 1468年
  • 1473年
  • 1477年
  • 1478年

応仁の乱は1467年に始まりました。

足利尊氏は何年に征夷大将軍になった?

  • 1333年
  • 1338年
  • 1343年
  • 1348年

足利尊氏は1338年に征夷大将軍になりました。

鉄砲伝来は何年?

  • 1541年
  • 1543年
  • 1545年
  • 1547年
  • 1549年

鉄砲は1543年に伝わりました。

建武の新政は何年に始まった?

  • 1334年
  • 1339年
  • 1344年
  • 1349年

1334年、建武の新政が始まりました。

桶狭間の戦いは何年?

  • 1555年
  • 1560年
  • 1565年
  • 1570年

桶狭間の戦いは1560年に起きました。

室町幕府の滅亡は何年?

  • 1571年
  • 1572年
  • 1573年
  • 1574年

1573年、室町幕府が滅亡しました。

室町時代・一問一答クイズ

問1 室町幕府が正式に開かれるまで後醍醐天皇が行った政治を何というか。

問2 足利義満の代になり中国との国交が回復したが、その貿易には貿易船であることを証明するためのものが必要であった。それを何というか。

問3 戦国時代の先駆けとなる応仁の乱は何年に始まったか。

問4 応仁の乱の直接的な理由またはきっかけを説明しなさい。

問5 山城の国一揆のように下の者が実力によってはい上がっていくような風潮を漢字三文字で何というか。

問6 土一揆とは何か、説明しなさい。

解答

問1 建武の新政

問2 勘合

問3 1467年

問4 足利義政の後の将軍家の家督争い

問5 下克上

問6 農民や貧しい武士などが徳政を求めて土倉や酒屋を襲ったこと

「土一揆とは何か?」という記述問題では『誰が』『何を求めて』『何をしたか』の三セットがいります。

  • 誰が…農民と貧しい武士が
  • 何を求めて…徳政を求めて
  • 何をしたか…土倉や酒屋を襲った

徳政とは借金の帳消しなどをさします。

室町時代のざっくり難しい解説(追記)

ここからはやや難しい解説になります。

室町時代の概要

鎌倉幕府の政治に不満をもつ御家人が増えると、後醍醐天皇は権力を朝廷に戻そうと反乱を起こした。正中の変などの失敗を経るが、やがて足利尊氏、楠木正成、新田義貞とともに鎌倉幕府を滅ぼす(1333)。

その後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる朝廷中心の政治を行うが、御家人や武士の不満はおさまらなかった。

朝廷と幕府の混乱

後嵯峨天皇の後、朝廷は持明院統(後深草天皇系)と大覚寺統(亀山天皇系)の二つの血筋に分かれた。天皇はそれぞれの系統から即位することになり、朝廷内部が分裂状態になる。幕府はさながら朝廷の抗争を調停するような役目を担っていたが、幕府自体も長崎高資(ながさき・たかすけ)などに実権を奪われて混乱していた。

系統 天皇 即位年
- 後嵯峨天皇 1242-1246
持明院 後深草天皇 1246-1260
大覚寺 亀山天皇 1260-1274
大覚寺 後宇多天皇 1274-1287
持明院 伏見天皇 1287-1298
持明院 後伏見天皇 1298-1301
大覚寺 後二条天皇 1301-1308
持明院 花園天皇 1308-1318
大覚寺 後醍醐天皇 1318-1339

得宗専制政治を代々続けてきた北条家は、第14代執権の北条高時のとき、北条家に代わって権勢をふるう長崎高資によって危機をむかえた。北条高時の次の執権をめぐって長崎高資と安達氏が対立し、幕府の秩序が乱れたところで後醍醐天皇が蜂起することになった。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

後醍醐天皇の反乱

大覚寺統の後嵯峨天皇は朝廷の混乱状態と幕府の干渉を排除するため、さまざまな施策をおこなう。やがて倒幕を決意し、1324年に正中の変、1331年に元弘の変を起こす。

正中の変は未然に阻止されたが、後醍醐天皇の側近は島流しにあっている。しかし元弘の変は比較的大きな反乱であり、朝廷軍と幕府軍が実際に衝突した。このとき足利尊氏と新田義貞は幕府側にいたが、楠木正成は後醍醐天皇側にいた。

二つの反乱は失敗に終わり、後醍醐天皇は失脚して隠岐(島根県北部の島)に流されてしまう。代わりに持明院統の光厳天皇が即位した。しかし楠木正成などの反幕府側は関東から離れたところで力をつけていた。1333年、後醍醐天皇が隠岐から脱出したことをきっかけに、足利尊氏は幕府に背いて六波羅探題を攻めた。新田義貞は関東で挙兵し、北条家と長崎家を攻めて鎌倉幕府を滅ぼした。

建武の新政

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は1334年に年号を建武に変えて「建武の新政」を開始した。後醍醐天皇は、藤原氏の摂関政治が本格的に始まる前の天皇中心の政治を目指していた。建武の新政は中央に雑訴決断所(土地の所有権などを解決するもの)を置くなど政治的刷新を試みたが、地方は旧来の政治を受けつぐような形だった。

中央

  • 雑訴決断所
  • 記録所

地方

  • 鎌倉将軍府
  • 陸奥将軍府
  • 国司・守護

鎌倉時代から室町時代にかけて日本に発生していた問題は土地の相続である。特に嫡子(正室の子)と庶子(非正室の子)の間で発生する土地の相続問題は全国的に深刻になっていた。鎌倉幕府後期になると嫡子がすべての土地を相続する単独相続が主流となったが、これは同時に家督をめぐって家内部が対立する状況を生みやすくしていた。いわゆる惣領制の崩壊である。

惣領制の崩壊によって土地所有をめぐる問題が頻発していたことを受けて、建武の新政では雑訴決断所が創設されたが、足利尊氏の力がついてくると崩壊した。

南北朝時代

1336年、足利尊氏は光明天皇(持明院統)を即位させると同時に建武式目を出し、新しい幕府(室町幕府)の方針を発表した。1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命される。

光明天皇:
光明天皇

室町幕府の「室町」は足利義満が政治をおこなった京都の室町という地名に由来する。

京都で支配的な立場になった足利尊氏をおそれて、後醍醐天皇は南の奈良に逃れた。北(京都)は持明院統、南(奈良)は大覚寺統と明確に分裂し、南北の朝廷はそれぞれ天皇を即位させることになった。

しばらく政治的な対立が続くが、1350年に観応の擾乱(かんおうのじょうらん)といった武力衝突が起きた。地方では、土地所有をめぐって対立しやすい状態にあった武士たちが北朝と南朝の側に立つような形で衝突した。

1382年に北朝で後小松天皇が、翌1383年に南朝で後亀山天皇がそれぞれ即位する。足利義満が全国的な支配を強める中、1392年に後亀山天皇が正式な天皇位を後小松天皇に譲ったことで、南北朝時代は終わった。

確認問題

  1. 足利尊氏や楠木正成らとともに挙兵し、関東の北条家を滅ぼしたものは誰か。
  2. 建武式目では(  )という機関をもうけて土地などの訴訟問題を扱った。
  3. 鎌倉時代後期、持明院統と(  )は対立するように天皇を即位させていた。
  4. 第14代執権の(  )の後継をめぐって幕府で混乱が起きた。
  5. 元弘の変で後醍醐天皇が流された島を答えなさい。

解答

  1. 新田義貞
  2. 雑訴決断所
  3. 大覚寺統
  4. 北条高時
  5. 隠岐