間髪をいれず
「間髪を入れず」「間髪入れず」とは、すぐにということ。すぐに、すぐさま、間を置かないで、という意味の慣用句です。副詞として使います。
「間髪を入れず」はもともと「間髪を容れず」という漢文の書き下し文でした。現代は「間髪入れず」が主流になっているため、どちらを使っても問題ありません。
一部のサイトで「間髪入れず」は間違いとする記事が掲載されていますが、それは間違いです。日本語は常に変化し、主流の言い方が正しい言い方になってしまいます。現代は「間髪入れず」がよく使われているため、これを間違いとする記事や国語辞典の解釈はすべて間違いです。
漢文の語源は正しさの根拠でなく、もっぱら使われている表現と意味が正式な辞書に掲載されます。
ポイント:「間髪入れずは間違い」という説明は間違い
ねんごろ
ねんごろ(懇ろ)とは、親しいことです。あるいは親切なことです。
ねんごろは使い方が難しい日本語の一つです。懇ろは、男性と女性が関係をもっているさまを想像させる言葉で、状況によっては強い嫌味や皮肉に聞こえてしまいます。
実際、ある国会議員が「懇ろ」という言葉を使って問題になったこともありました。懇ろという言葉は、ただの友人や友だちにはほとんど使わないのです。深い恋愛関係にある男女を暗示するので、使いどころは難しく、実際は公の会話にほとんど出てきません。
憂慮
憂慮とは、とても不安に思うことです。すでになにか悪いことが起きており、状況がより悪くなるのではないかと恐れていることを憂慮といいます。
憂慮は予測できないことに対してはあまり使いません。例えば大雨の予兆がないのに「大雨を憂慮する」ことはほとんどありません。
台風が迫ってすでに雨が降っているときに、「大雨を憂慮して…」などと使います。
大雨の例を出しましたが、憂慮は科学的な不安よりも社会的な不安に用います。例えば、政府が「財政赤字による景気悪化を憂慮する」という表現は適切です。
憂慮は個人的な不安に対しても使いません。「勉強不足だったせいでテストを憂慮している」という文は日本語として少し間違っています。
喜びもひとしお
「喜びもひとしお」とは、より喜ばしいことです。いっそううれしい、今よりも喜んでいる、といった意味をもちます。
「喜びもひとしお」の「ひとしお」は漢字で一入と書きます。いっそう、より、もっと、といった程度の意味です。
危惧
危惧は「きぐ」と読みます。危惧とは、危険ではないかと不安になることです。「危惧する」などと使います。
きぐ
音読み グ
画数 11
「おそれる」という意味の漢字。
「お疲れ様です」と「ご苦労さまです」
「お疲れ様です」は同じ立場にいる者どうし、または上司が部下に対して使う言葉で、「大変でしたね」「疲れましたね」といった意味をもちます。
「ご苦労様です」は上司が部下にかける言葉で、「大変だったでしょ、どうもありがとう」といった意味をもちます。
ここでは上司と部下、同僚と同僚がどちらの言葉をかけていいか説明します。
上司から部下 ○
部下から上司 △
同僚から同僚 ○
「お疲れ様です」は部下が上司に使う言葉としてはやや不適切です。年下の者が年上の者に使う言葉としても同様に適切ではありません。
また、顧客や取引先、役所などの窓口に対しては使ってはいけません。顧客に「お疲れ様です」と言っては大変なことになるでしょう。
上司から部下 ○
部下から上司 ✕
同僚から同僚 ○
部下は上司に「ご苦労様」と言ってはいけません。「ご苦労様」は「苦労をかけた」を名詞化した一種の敬称ですが、「苦労をかける」という言葉は立場が上の人間が使います。
もちろん顧客や取引先にも「ご苦労様」とは言ってはいけません。非常に失礼な発言だととらえられるでしょう。
「お疲れ様です」はあいさつでなく、「さようなら」といったあいさつの前置きです。日中仕事をしている間に、電話やメールなどで「お疲れ様です、○○です」と言う習慣はやめましょう。
ポイント:「お疲れ様です」は「さようなら」の前置きであり、日中仕事をしているときは使わない
目上
目上(めうえ)とは、立場が上の人、または年齢が上の人のことです。
目上だけでその人を表すため、本来は「目上の人」「目上の方」という必要はありませんが、実際は「目上の人」などと使われます。
実際に「目上の人」と会って話をしている最中に、目上という言葉を使うなら「目上の人」と言ったほうが誤解が少ないでしょう。
目上の人がいないなら、「目上」でもかまわないでしょう。上の例文のように「目上だから」などと使う分には問題ありません。
目上という言葉そのものはさまざまな含蓄があり、儒教的なニュアンスや家父長制の印象があります。目の上という言葉はあからさまな上下関係を含むため、年齢が上ということを伝えたいなら「年上」と単に言ったほうがいいでしょう。
なぎ(凪)
凪は音読みがなく、「なぎ」「な(ぐ)」という訓読みがあります。凪は音読みがない漢字の代表です。
「なぎ」とは風がない状態です。無風状態で静かなさまを「なぎ」といいます。また、海で波がない状態も「なぎ」といいます。厳密には波がない状態はないため、波が静かで穏やかなさまを「なぎ」といいます。
風がなくなり、音が静かになることを「なぐ」といいます。波がなくなることも「なぐ」といいます。
意外と以外
意外とは、予想と違うことです。または予想以上で驚いているさまを意味します。
○以外とは、○でないものです。例えば、マグロ以外の寿司にはサーモンがあります。マグロはマグロ以外のものではありません。
「これ意外とうまいね」は正しい文ですが、「これ以外とうまいね」は間違いです。ほとんどの文脈で、意外は「予想以上」という言葉に置きかえられます。
出生地主義
出生地主義とは、その国で生まれた人に市民権を与える社会制度のことです。アメリカやカナダが出生地主義をとっていますが、現在トランプ大統領はその制度に反対を唱えています。
出生地主義をとっているアメリカでは、アメリカでない国籍をもつ人であっても、アメリカで子どもを産めば、その子どもはアメリカ国籍をもちます。これはアメリカ合衆国憲法修正第14条第1節で定められています。
ヨーロッパでは血統主義が一般的で、例えば日本も血統主義をとっています。父母どちらかが日本人なら、子どもは日本国籍をもちます。
滸
さんずいに許すと書いて滸という漢字ができます。滸は「おこがましい」を漢字にした「烏滸がましい」で使われます。
音読み コ
訓読み ほとり
滸は水際を意味します。水があるところの際を意味します。
いたわる
労働の労は訓読みで「いたわる」「ねぎらう」と読みます。
どちらもよく使われますが、どう違うでしょうか?
「いたわる」とはなぐさめることです。たいてい、相手はなにかが原因で傷ついています。その傷をなぐさめるときに「いたわる」わけです。
「ねぎらう」とは感謝することです。褒めることも意味します。例えば、父の日に父の労働に感謝することは、ねぎらうことです。
顔ぶれ
顔ぶれとは、集団にいる人たちのことです。または、その人たちが集まっている様子をいいます。顔ぶれを漢字で書くと顔触れとなります。
特に、馴染みのある人たちを顔ぶれといいます。不特定多数の集まりを顔ぶれという場合もありますが、やや限定的です。
顔ぶれは人の集まりを意味します。「彼ら」「彼女ら」といった感じで使うといいでしょう。顔ぶれという言葉そのものはわずかに失望や残念な感じをもちます。また、目上の人がたくさん集まっている様子を「顔ぶれ」とはいいません。
面々は顔ぶれよりも個人に主眼を置いています。顔ぶれは全体をさすのに対して、面々は一人ひとりに目を向けているニュアンスがあります。
ただし、面々で全体を表す場合もあります。
面々も目上の人たちの集まりに対してはほとんど使いません。目上の人の前で「この面々で…」と言うのはかなり失礼です。
顔ぶれは「彼ら」「彼女ら」で、「あなたたち」という意味はやや薄く、どこか距離があります。距離があるため、やや冷たい印象があるのです。
面々はやや「あなたたち」「あなた」という意味が強めに出るので、顔ぶれよりは人間的距離が短くなります。
どちらも人によってニュアンスに差があり、「失礼な発言だ」と思われる場合があるため、大切な客人の前で顔ぶれや面々と発言するのは控えましょう。
おこがましい
「おこがましい」とは、生意気で図々しいことです。身分や年齢のわりに失礼で、調子にのっているさまを「おこがましい」といいます。
「おこ」の部分が漢字になると「痴」になります。「烏滸」もとても難しい漢字です。ちなみに烏滸そのものは「愚かだ」「浅はかだ」といった意味をもちます。つまり「おこがましい」は「愚か」な行動ということです。
自己欺瞞
欺瞞とは嘘をつくことです。欺瞞は「ぎまん」と読みます。自己欺瞞とは自分に嘘をつくことです。
ぎまん
自己欺瞞とは、自分の本心を隠して、自分に嘘をつくことです。自分に対して嘘をつくことも、他人に対して偽りの自分を演じることも自己欺瞞といいます。
自己欺瞞はかなり否定的なニュアンスをともない、しばしば偽善と混同されます。
欺瞞は単なる偽りで、悪を偽ることも含みます。むしろ欺瞞は善悪と関係ない概念です。
一方の偽善は、悪なのに善を主張することをいいます。本当は悪だが、批判されたくないから善を演じることを偽善といいます。偽善をなす人は偽善者といいます。
欺瞞と偽善の違いをシンプルに解説するなら、偽善は八方美人のニュアンスがあり、欺瞞は八方美人ではないことです。偽善者は人のいい顔をして、裏では悪いことをするというイメージがあります。欺瞞はそうした裏表と関係ありません。
欺瞞的と偽善的はどちらもありますが、欺瞞的はあまり使われません。
捺印
押印は「おういん」と読み、捺印は「なついん」と読みます。意味は印鑑を押すことで、押印と捺印に違いはありません。
押印 おういん
捺印 なついん
印鑑を押す。ハンコを押す。
意味に違いはありません。違いはもとの言葉です。押印はもともと記名押印という言葉で、捺印は署名捺印という言葉でした。
記名押印→押印
署名捺印→捺印
今では押印・捺印という言葉で意味が通じていますが、もとの言葉は違います。しかし記名押印も署名捺印も「はんこを押す」という意味しかありません。
署名は自分の手で名前を書くことを意味します。記名は「自分の手」以外の手段で名前を書くことです。記名は署名以外のサインとよくいわれます。
署名 自筆のサイン
記名 署名以外のサイン
ハンコで山田といった名前を押すとします。このとき木などでできたハンコ本体をいわゆるハンコといいます。ハンコの正式名称は印章です。
紙に山田という文字が赤または黒で印字されたわけですが、この印字された山田という文字そのものを印鑑といいます。印鑑は印影ともいわれます。
ただ、これは形式的な定義で、実際はハンコを印鑑といいます。そして現実的には印鑑とハンコは同じものとして使われます。
推察
推察とは、対象を分析することです。推定も同じ意味の言葉です。例えば、相手の気持ちを考えることは推察で、新宿駅を利用する人数を考えることは推定です。
推察と推定の意味はほとんど同じですが、客観的かどうか、特に証拠や判断材料があるかないかの違いがあります。推察といった場合、それは客観的というよりは主観的で、証拠になる材料が乏しいといえます。
一方、推定はさまざまな証拠や材料をもとにしています。
政府は統計などをもとに「推定」しますが、「推察」はしません。私たちは人の感情を「推察」しますが、「推定」はしません。
摘要
概要とはおおまかな説明のことです。摘要とは要点のことです。例えば、YouTubeの動画の下にある説明文はその動画の概要です。入学願書にある出願日や受験日の表は摘要です。
概要 がいよう
摘要 てきよう
概要…まとめ。わかりやすい説明。
摘要…ポイント。要点。
概要と摘要はとてもよく似た言葉です。この二つが決定的に異なるのは会計です。帳簿には摘要という欄がありますが、概要という欄はあまりありません。
摘要には売上のあった商品名や、取引のおおまかな内容を記します。ここで概要という言葉を使うことはめったにありません。
また、概要は文章になりますが、摘要は文章というよりも表や箇条書きを連想させます。摘要のほうがよりシンプルで見やすいイメージがあります。
概念
概念とは、抽象的なグループや性質を意味します。例えば「大学」は概念の一つです。東京大学は大学の一つで実際に存在しますが、「大学」というものはありません。「大学」とは東京大学や京都大学といったもののグループです。グループは概念の一種です。
また、「恥」も概念です。「恥」は目に見えないものですが、「恥」の気持ちはあります。授業中に怒られたり、舞台の上で失敗したりすると、人は恥という感情をもちます。恥は感情の性質です。
「重い」も概念の一つです。質量が大きいという性質を「重い」というのです。「重い」というなにかがあるわけではありません。「重い」は物体の性質です。
概念はコンセプトの日本語訳で違いはほとんどありません。ただし、日本でコンセプトといった場合、製品やサービスの目的を表すことが多いでしょう。
概念は目的と異なります。概念はグループや性質であり、明確な方向性はありません。概念は原因や結果といった因果関係でなく、具体的ななにかを抽象的に分類するための言語的・形式的な認識です。
日本で用いられるコンセプトという言葉は、概念と同じように分類を意味すると同時に、なんらかの方向性や因果関係を意味します。例えば、おもちゃのコンセプトは子どもの娯楽です。子どもが楽しむためにおもちゃがあり、目的は子どもの遊ぶ行為にあります。
概念…分類
コンセプト…分類、目的
森羅万象
森羅万象とは、自然のこと。山や川、植物や動物といったすべての自然を表します。あらゆる事象や現象を森羅万象といいます。
しんらばんしょう