高校倫理 ベネディクトの「恥の文化と罪の文化」を考える

ベネディクト(ルース・ベネディクト)はアメリカの文化人類学者で倫理の教科書に出てきます。代表作『菊と刀』で日本文化を詳しく分析しています。

高校倫理ではベネディクトによる日本と西洋の根本的な違いに触れます。それは日本分化が恥の文化であり、西洋文化が罪の文化であるという東西世界の二項対立です。

日本文化 … 恥の文化 西洋文化 … 罪の文化

日本ではトラブルを抱えた芸能人や政治家は記者会見を開いて「この度は世間をお騒がせしまして大変申し訳ありません」といった謝罪をします。当事者の間で謝罪するのみならず、テレビや雑誌といったメディアを通じて日本社会全体に向けて謝罪する。この社会性からわかるように日本人は世間という抽象的な何かをいつも意識し、問題が起きた時は問題そのものというよりは問題によって生じる自分のマイナス評価を気にするところがあります。

ミスや問題についてどう向き合うか? 問題そのものに向き合うか、それとも問題によって生じた自分の恥に向き合うか。そこに日本人と西洋人の根本的な違いがあります。

ベネディクトは西洋文化を罪の分化と表現していますが、西洋人は世間の評価よりも問題そのものを第一に意識します。これは西洋の個人主義的な側面があると考えられます。ここからは筆者の考えになりますが、おそらくキリスト教の影響もあるでしょう。キリスト教の原罪という考え方と個人主義的風潮がある種の自己完結型意識(罪の意識)を生んでいる可能性はあるでしょう。

現代社会では恥と罪の両方が必要

以下も筆者の持論と考え方になります。現代社会はインターネットを通じて世界が一つにつながっています。一人の発言はいろいろなメディアを経ていろいろな方向に拡散し、不用意な発言をすれば自分の知らないところから批判がやってくる。インターネットにおける称賛や批判の多くは匿名であるため、私たちにとってインターネットはあたかも『大きな監視者』になっています。

高校倫理で習うフーコー(『狂気の歴史』や『監獄の誕生』を著した哲学者)は近代社会をパノプティコンと表現しました。パノプティコンは中心に監視者、その周りに囚人が閉じこめられている円形状の監獄のことで、フーコーの考えを借りれば、現代のインターネット社会はまさにパノプティコンと言えるかもしれません。中心に何者かよくわからないインターネットという監視者がいて、その周りに私たちがいる。何かミスをおかしたら、監視者としてのインターネットが私たちを容赦なく攻撃する。

こうした監視社会では『恥』は自分の盾になります。「こんなことをしたら、あんなふうに言われるだろうな」という恥によって自分の行動を律することができるからです。恥という概念を忘れてしまったら、自暴自棄になっておかしな行動をしてインターネットという監視者から容赦なく批判されてしまうかもしれない。それは結局、自分にとって損になる。

一方、恥という建前上の概念だけにとらわれていると問題の本質が見えなくなる。「こんなことをしたら、あんなふうに言われるだろうな」ではなく「こんなことをするのはなぜいけないのか」という発想こそが、問題の本質的な解決につながり、やがて自分の成長につながります。インターネット社会では自立と責任、そして自分の頭で物事を理解したり解決したりする問題解決能力が求められますが、この罪の意識はその能力の向上に役立つでしょう。

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