ベネディクトの「恥の文化と罪の文化」を考える

ルース・ベネディクトはアメリカの文化人類学者。日本の文化を研究し、「菊と刀」にまとめました。ベネディクトは、西洋の文化は罪の意識、日本の文化は恥の意識があるとしました。

日本ではトラブルを抱えた芸能人や政治家は記者会見を開いて「この度は世間をお騒がせしまして大変申し訳ありません」といった謝罪をします。当事者の間で謝罪するだけでなく、テレビや雑誌といったメディアを通じて社会全体に向けて謝罪する。

この社会性からわかるように、日本人は世間を意識し、問題そのものというよりは問題によって生まれる自分のマイナス評価を気にする。

ミスや問題についてどう向きあうか? 問題そのものを反省するのか、世間に悪い印象を与えてしまった恥を意識するのか。そこに西洋人と日本人の違いがあるでしょう。

現代社会では恥と罪の両方が必要

以下も筆者の持論になります。

現代はインターネットを通じて世界が一つにつながっています。一人の発言はいろいろなメディアを経ていろいろな方向に拡散し、不用意な発言をすれば自分の知らないところから批判がやってくる。インターネットにおける称賛や批判の多くは匿名であるため、私たちにとってインターネットはあたかも監視者になっています。

フーコー(「狂気の歴史」や「監獄の誕生」を著した哲学者)は近代社会をパノプティコンと表現しました。パノプティコンは中心に監視者、その周りに囚人が閉じこめられている円形状の監獄のことです。

現代のインターネット社会はまさにパノプティコンといえるかもしれません。中心にいインターネットという監視者がいて、その周りに私たちがいる。ミスをおかしたら、監視者としてのインターネットが私たちを容赦なく攻撃する。

こうした監視社会では「恥」は自分の盾になります。「こんなことをしたら、あんなふうに言われるだろうな」という恥があれば、自分の行動を理性的に維持できるからです。恥とは、自分が損しないしくみであり、同時に社会が平和に保たれるしくみでもあります。


ルース・ベネディクト

一方、恥だけにとらわれていると問題の本質が見えなくなる。「こんなことをしたら、あんなふうに言われるだろうな」ではなく「こんなことをするのは、なぜいけないのか」と罪と向きあうことは、問題を理解する助けになるでしょう。赤信号の横断歩道を渡らないのは、みんなが渡らないからでしょうか? 本当は違うはずです。自分が車にひかれないため、また車と歩行者をうまく共存させるために、赤信号のときは渡らないのです。

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